人生

やっていきましょう

552日目

自分が使っている言葉をよく観察してみれば、その意味するところがどこか曖昧であるということに気がつく。自分は自分が用いている言葉をよく高校課程の範囲に収束するという言い方をするが、これは自分の言語能力をよく言い表した言葉だと思う。自分は専門的な用語をほとんど使わないし、使うことができない。自分は専門用語が規定するほどの厳密さを、自分の言葉に認めていない。

言語の解像度の話をしている。例えば自分は「普通」であるとか「事実」であるとか、「自明」「主体性」「自分」「意味」といった単語を好んで使う。しかしそれらは厳密な定義を持っているわけではなく、やや広範囲の解釈可能な領域に「ここらへんのこと」というラベルを張り付けているにすぎない。自分でもそれが何を意味しているかよくわかっていないまま、「ここらへんのもの」を指す際に上記の言葉を使っている。

自分が恐れているのは、自分が認識している言語解釈以上の厳密さが存在しうるということが見えなくなることだ。自分が見慣れている言語だけを取り上げて、それらによって構成される曖昧な世界観が自明のものとなったとき、その言葉の厳密さは不十分であるという自覚が次第に薄れてくる。これは何度か経験しているからこそ危機感を抱いている。

このとき自分は、言葉の厳密さを求めようとして自分の言語運用能力を1から100まで飛躍させる何かを求める傾向にある。しかし言葉の厳密さはそうした飛躍によって達成されるものではほとんどない。仮になにか「本質的な」直感によって1から100まで飛躍できたとしても、それは簡単に言えばaからbの間に限定されるものであって、他のcやdの間も同様に飛躍できるとは限らない。自分はそう考える。言葉の厳密さというものは、全方向の認識に対して確かな一歩を少しずつ踏んでいくという地味な作業が求められる。自分が最も苦手とする作業だ。

自分を評価するならば、自分は直感に基づいて言葉をただ連想させるということしかしていない。その言葉の意味はどういうものか、その言葉は自分の言葉で定義できるか、といったことをまったく考えていない。そのため、たとえばあるピンポイントの事象や出来事に対して考えるとき適切な言葉を与えることができていない、ということが頻繁に起こる。自分が直感を垂れ流してブログを書くときよりも、自分が読んだ本の簡単な感想文を書くことの方が難しいと感じる。感想を書くためには対象の正確な把握が必要だからだ。自分はそうした一意に定める言語能力を持たない。

そこでひとつ気付いたことがあった。観察によって得られた事実というものは、直感的な確信とは別モノであるということだ。観察というのは、自分が何をどう思っていようが、それとは別に五感を用いて得た外部の情報をそのまま把握しようと努めることだ。直感的な確信、というのはいくつか事実に対する偏った認識を含んでいる。ある限られた部分に対して過程を飛ばして意を捉えているために、その確信が及んでいる範囲の外のことになると何もわからなくなる。その内と外は厳密な論理や観察によって繋がっていないからだ。

直感とはたとえばサイコロの1面だけが鮮明に見えるというようなものであり、その裏面や側面を把握するには直感ではなく観察や分析的態度が必要になる。自分の場合、そのように考える能力が足りないということが分かっている。だから自分が意識してそのように考えることを学習する必要があると考えている。

自分は自分と同じように言葉を運用している人間をTwitterで何人か知っている。彼らが自分でそう言っているわけではないが、やはり直感的に分かってしまう。彼らも自分と同様、意味の厳密さ以上に、言葉のリズムや創造的な連想によって導かれるように書いている人間なのだ。しかしそれは、事実以上に直感的確信を優先させているという点で危うさがある。

彼らはしばしば、自分が認めている世界観が偏りを含んでいて不十分なものであるという自覚を持っていないように見える。彼らは彼らが分かってしまうといういわば直感的事実とでもいうべきものに従って、その世界観に没入している。だから偏りが過ぎていたとしても、自分で気づくことは難しい。

だから自分は、自分の考えやその根拠となる言葉の使い方を絶対視しない。現実問題を考えるときは、一旦直感というものを控えておいて、どうにか分析的な態度を持つことができないだろうかと考えている。

これがなかなか難しい。分析に長けている人間もまた何人か知っているが、彼らがどのような思路によって現実を捉えているのかが知りたい。それを理解した上で、自分のものの見方のひとつに加えられたらと思うが、どういうわけか彼らは口をそろえて普通に考えたらそうなるといったような話をする。分析的態度が自明の人間もいるのかと、そのときはじめて知った。

とにかく自分は、少なくとも言葉に関しては分析的に考えられるようになる必要がある。そのためには先に述べたような1から100になるような直感を期待するのではなく、簡単な問題について、できる範囲で考えていくということだ。例えば、自分が今まで知らなかった言葉や、自分の言葉に不安があるものについては常に調べる習慣をつける。全体を見渡したときに文章としてある程度の意味成しているかを振り返る。表現を何度も推敲する。こうした基本的な部分を継続させることから始めていきたい。