人生

やっていきましょう

560日目

これには意味があるのか、と随分長い間問い続けてきた。意味と呼ばれるものが自分の生まれた以前から共有されていて、自分が生まれ言語による認識を獲得したと同時に自分の中で自明のものとなっていた。それこそ、その自覚が失われるほどに意味は自明だった。

意味は価値とも置き換えられる。価値づけという行為がひとつの習慣となっていて、世の中に吐いて捨てるほどころがっている無機質なものに、自分はいくつか親しみを与えてきた。親しみというのは、まさにそう言うほかに無い、ある種の事実誤認だ。そこに自分らしさを感じるものとして解釈することが、価値づけるということだ。

自分が近年味わった精神の挫折から学んだことは、この自分が持っている意味や価値というものが必ずしも他人や社会のそれと一致しているわけではないということだ。こう書くと当たり前のように聞こえるかもしれないが、それは自分にとって大きな気付きだった。それと同時に、それは自分に今まで味わったことのない実存的な不安を与えた。

それまで自分は能力的に恵まれなかったかもしれないが、生きるに足る人間であるという一定の自負を持っていた。当然、他人もそう思ってくれていると思っていて、人間各々には生きる意味があり、生きる価値があると自分は思っていた。

これはある意味正しかった。ただし、それを正当とする人間と人間が構成する関係の上においてのみだ。人々が互いに生きる価値がある、生きる意味があると言い聞かせることで、自分はその共同幻想の内側に暮らすことができていたということに自分は気づいた。だから自分がその関係から切断されたとき、つまり人間の精神がひとつの独立したものとなったとき、この生きる意味や価値とやらが、まったく奇妙で、無意味なものに見え始めた(自分に皮肉を言えばそれは「神秘的」だった)。

この見方は極めて個人的なものだ。意味や価値の供給源となる集団から切断した/された人間が、必ずしもその欠乏にあえぐという訳ではないかもしれない。理屈を言えば、強靭な価値の供給源を内側に持つ人間は、外部からの供給が絶たれても自分で種を撒き、自ら耕すことができる可能性だってある。

だがそれにしても、ある時点でそうなったきっかけはいつも外にあると思う。生まれた時から自分は意味や価値を内側に宿していたわけではない。どこかで、外側にある共同幻想の種を自分に持ち去る必要がある。その意味で自分は意味や価値というものは、他者や外部を通じなければ獲得できないものだと思っている。

だが自分にはそれができない状態にある。どこへ行っても、何を見ても、それが「自分の」ものであるようには思えない。世の中の意味や価値から切断された個体として、自分は価値の網に繋がっている人々の安定した世界を眺めていた。価値をただ傍観していたのだ。

その時の孤独というのは恐ろしかった。このとき自分は、この不安を無くすには自ら死ぬ以外に解決する方法が無いという状態に追い詰められていた。自分は死者であるという、最後の価値に救いを求めた。だが死者が称えられるのは、芸能人の訃報と同様、単に生者の中でしかない。自分は彼らの持っている意味や価値を、死ぬことで与えられると夢想していたにすぎなかった。

死ぬということは自分の意識が分解されることであり、生命活動はもちろん、意味や価値などを吸収し構築できない状態になることでしかない。それは本人にとってはまったくの無意味である。おそらくこれが事実だ。だからこそ自分は自殺すら積極的に価値づけすることはできない。自分は自分の身体がそのように思うことを退けようとするはたらきに従って、ただ惰性によって生きている。

ずるい言い方だが、結局は周りの世界は変わっておらず、自分だけが変わっているのである。だから自分が再び適応しようとすれば、少しずつ自分の周りには意味や価値がとりまき始める。これはおそらく正しかった。自分がすこし考えることをやめただけでも、apexやスマブラやクイズで一喜一憂したり、本や映画を見て話について考えたりすることが自然にできている。これは異常だ。異常という自覚がありながらそのようにしているので、無自覚な意味の自明さと自覚的な無意味さが混合して、おかしなことになっている。

最近自分は、自殺という物語ではなく、機能という仕組みに助けられているのだと実感する。機能は、それを扱う人間がどれほど精神的に異常であったとしても、ある目的を持って一定の方向から操作を行った結果、その操作に応じた反応が返ってくる。もちろん、世の中のすべてがそう狙い通りにはいかないとしても、すべてが混沌の中にあるのではなく、少なくない場合には一定の機能やパターンが存在する、ということに自分は救われている。なぜなら自分の精神は自ら価値づけできないほどに腐っていながら、目的を定め機能的に行動することで生命活動を維持できているからである。

自分にはその機能を運用し、パターンを学習する能力がない。むしろ文章を書いて自分勝手な価値づけを行っている方が向いていると自分では思っている。

だから自分で自分を不幸だと思う。これだったら自分は変に虚無を直視しようとせず、自分の思うがままのところを好き勝手言って、それに賛同しない相手をバカだ、未熟だと思っていればよかったかもしれない。明らかに自分はその傾向があり、おそらくそのように生きていた方が幸せだっただろう。

だがこれ以上の後悔、自己憐憫は無意味だ。それらの麻薬は自分の痛みを和らげてくれるが、痛みを先延ばしにするだけであって、肝心の痛みや不安が消えたわけではない。現実を見ないからといって虚しさを感じるくらいなら、現実を見ようとするしかない。

後悔が長すぎた。ひとつの事実を言えば、現実は今ここにしかない。自分が何を選択するにしても、ただ過去を後悔するだけで時間を無駄に過ごすのはつまらない。だから行動しろと自分に言い聞かせたい。これこそ何度も使い古された陳腐な常套句だが、自分はやはり冷静に考えてみても、行動する以上に過ぎた事を嘆きすぎる。