人生

やっていきましょう

562日目

一度自分が定義した思いつきの解釈を、更に具体的に掘り下げて再定義し直すことの難しさがある。自分にはこの能力が欠けている。

自分が一度正しいと思ったことを否定するのは容易なことではない。否定すべき点が分かれば話は早いが、大抵の場合、それが正しいかどうかの判断がつかないまま、何となく受け入れるか否定することになる。

自分の能力を考えれば、判断はつかない方が常である。だから自分の理解力を超えたことを無理に判断をしようとしてもうまくいかない。

だが自分の実力が及ぶ範囲に限定して、可能な限りの答えを出そうとする姿勢にはあまり問題がない。

問題は自分の、行動や経験から得られる認識、情報を軽んじているという姿勢だ。

自分のような事前に考えすぎる人間は、実際の行動や結果という要素を判断材料にしないという傾向があるように思う。そのため、自分が理解できないものについては、とにかく無い頭をフル稼働させて、手持ちの情報「だけで」理解しなければならない、と思い込んでしまう。

このつまらないプライド(あるいは無意識的な思考の癖)によって、自分は自分の頭で無限に考え続けてしまう。そしてそれが止まることがない。

賢い人間は頭の中だけで生み出された情報のみにこだわるということをしない。彼らはその思いつきに強いこだわりがあったとしても、実際の行動や経験と比較し、修正するという術を心得ている。

自分は経験から来る痛みや恐れを回避するために頭の中ですべて考え尽くしてから本番に臨もうとするが、悲しいことに自分はそこまでの理解力を持っていない。完璧であろうとするが、頭が追いつかず、それでいつも不十分だと嘆いている。

実際のところ、自分にとっては経験や行動から何かを得た方が楽なのだ。見たこともない絵画の特徴を、ただ無機質な説明によってのみ頭の中で再現するよりも、実際にその目で絵画を見て把握した方が遥かに容易だ。数学の問題を前情報なしに解こうとするよりも、答えを見ながら解法を追った方が理解が簡単だ。

このように考えると、自分の思考の行き詰まりは圧倒的な経験不足と思考の極端な自己完結にあると言える。

思考といえば自分の頭の中で何かを思いつくだけではなく、実際に目で見て手で触れた感覚を判断材料にすることも含まれる。

思考はあらゆる角度から行われる必要があり、経験や結果から学習することは特に重要だ。自分の解釈が常に浅く感じるのは、自分の視点というただ一点のみに支えられた脆い言説だからだ。

再定義をしようとしても、自分の中にある言葉は不足しており、これ以上具体的に言及することができない。定義し直すには外部からの情報を取り入れて自分の考えと混ぜていくしかない。