人生

やっていきましょう

563日目

自分の情報源はほとんどネットに依存している。このことについて自分はこれまで考えてきたのか。

ネットに繋がれた人間が発信するあらゆる情報を自分は吸収する。面白い情報から、自分の生き方について考える契機となる情報まで、ほとんどネットで得たものばかりだ。

ネットの情報は言わば他者の経験だ。他者を通じて自分のところに経験が送られる。だがそれは自分の経験ではない。自分には存在しない偽の経験だ。

ゲームの配信がある。自分はその動画を見て配信者の経験を追体験する。しかし実際の困難や喜びは、操作してみないことにはわからない。上手い人の配信を見ている分には簡単そうに見えてしまう。

ゲームに限った話ではない。Twitterに流れてくるような情報でさえ、自分の経験ではない独立した経験だ。それを自分が受け取り、さも自分の経験であるかのように錯覚するのは危険だと思う。

なぜならそれは主体的な経験ではなく、傍観者としての経験だからだ。どこからか勝手流れてきた情報を受動的に吸収し、そこで満足してしまっては、現実を生きる意欲も、自らが自らによって立っているという主体も失われていく。

明らかに自分はネットで暮らしている時間の方が長い。そんな自分にとってはネットの中の方が現実であるように思われてしまう。だからこそ自分に言い聞かせる必要がある。自分が見ているものは自分の現実ではなく、伝聞や記述によって薄められた他人の現実だ。そこからのみ何かを得ようとすれば、自分の人生は傍観者の体験によって埋め尽くされる。口を開けば傍観者としての感想しか言えなくなり、見るものはリアリティが失われる。

ネットで見た陰謀論や政治思想、宗教で「真実」に目覚めた人間を冷笑する風潮がある。ネットの中の現実が実際の現実を超越したひとつの例だ。自分は彼らを笑うが、では自分は彼らとどう違うのかとも思う。自分もまたネットに繋がれており、多少は冷静な判断ができるだろうというだけで、根底部分は同じではないのか。ネットの中で歪められたリアリティから出ようとしないという点で、自分と彼らはあまり変わらない。

自分に必要なことはネットの外の世界が存在するという想像力を持つことだ。ネットと同様に(あるいはそれ以上に)現実の体験も重視する。ネットで何を見たかだけでなく、現実で起きたことに注目することで自分の視野を広げ、情報に対する向き合い方を改善していく。