人生

やっていきましょう

565日目

不都合な事実を自分のもとに晒すことが、かつては問題の正確な把握によって事態を克服するという狙いのもと行われていたが、今ではその意欲が消失し、ただ自分の心を傷つける以上のものではなくなった。

自分はかつて自分の認識の甘さに失望し、事実の正確な認識を努めることで状況を好転させようとしていた。今も尚そうあるべきだ。しかし今では状況を変えようと努力することはせず、ただ安定の内に委縮している。

自分は事実を見ているというが、何のために事実を見ているのかを忘れてしまっていた。この状況を変えるという目的を見失い、その目的を果たす手段であったはずの不都合な事実の直視がいつのまにか目的にすり替わっていた。

自分は相性の悪い2つの目的を混合して抱えており、どちらも中途半端な結果に終わっていた。ひとつはこの状況を改善するという目的で、もうひとつは自分の心を安定させるという目的だ。

自分の心を安定させる上で、不都合な事実を無差別的に自分に突きつけることはかえって逆効果だ。安定を求めるのであれば、自分を労り続けることが重要だ。だがこのとき自分は自分の心を安定させることを嫌悪していた。自分は憎しみに近い感情で、安定を捨て去ろうとし、事実を直視することに執着していた。

一方、事実を直視して状況を改善させようと思い立った時は、その重圧に耐えきれず心の安定が必要だという泣き言を自分に許していた。これは矛盾しているが、自分ではまったく気づいていなかった。

要するに自分は無意識のまま、自分に都合の良い選択を選んでいた。

この双方の誤魔化しが酷くなると、いずれも目的が曖昧になって消え、事実を直視することと、心の安定を求めることだけを繰り返すようになる。自分は長い間そのような状況にあった。目的のないまま、ただ同じことを何度も繰り返していた。

自分はどういう目的で、何をしているのかということを常に確認する必要がある。自分は今何をどうしたいのか。

自分の本来の目的は、自分の認識の甘さに対する絶望を動機として、認識を根本から改めるというものだった。そのため雑な認識で妥協せず、自分に不都合なことは正しく受け止め、自分に合った対処法をあてていくという狙いがあった。

これは抽象的な展望だ。つまりあらゆる問題についてもこうした態度を持ち続けようという話である。この「あらゆる問題について」というのも設定としては曖昧だった。言及は抽象的であってもよいが、必ず具体例を意識する必要がある。

これを具体的な問題に落とし込むとどうなるのか。例えばゲームの開発の話をすると、不都合な事実とは杜撰な計画と思い付きの設計を繰り返しているということだ。もっと言えば長期化した開発に見合ったクォリティを求めすぎて、ますます完成しないという問題もある。こうした事実を受け止めて、とにかく完成させることを優先しよう、計画は実現可能なものを建てよう、思い付きを取り入れるのはほどほどにしようと考えること、そしてこれらを実現することが目的というものだ。

このように不都合な事実は活用すべきだ。無計画で行き当たりばったりであるという事実を無差別に自分に投げかけ、自分を不当に貶めるのは目的に反している。こうした自傷は過度に自分を疲れさせ、目的を見失わせるだけだ。

何度も自分に言い聞かせなければならないことだが、このブログは自分に目的を達成する習慣をつけさせようという意思のもと立ち上げられたものだ。とにかく自分に目的を与えなければ本当におかしくなるという状態だったから、必死の思いで立ち上げた。そのことを忘れてはならない。今は多少の安定が生まれ、目的を持たない余裕が生まれたが、自分が数年前に味わった絶望を無かったことにしてはならない。

目的を立て自分を方向づけなければ、自分は無方向のまま虚無の地平に立たされる。そのことを恐れていたからこそ、自分は自ら目的を立てる努力をしようとしていたのではないのか。

目的は自然に与えられるものではなく自分で与えるものである。そのため、与えなければ与えられないままだし、与えて維持しようと努めなければ自然の流れで朽ちていく。そのことも忘れてはならない。自分の人生を自分で舵取りする意思がなければ、ただ荒波にさらされ続けるという教訓を、今一度意識しなおす必要がある。

目的というと茶番であるように聞こえる。事実を言えばそうだ。自分には生きる理由も存在する目的もまったく保証されていない。意味のない世の中に投げつけられて、意味のない目的を自らに与えて意味があると誤魔化そうというのだから茶番である。

が、仮にそうであったとしても、目的が無いということは、自分自身を自分で方向づけられていないことを意味する。このことは意味や価値による判断を抜きにしても深刻であるように思う。特に自分の場合、自ら意思決定を行い自らの望むところを生きるということが自明ではなく、他律や規範の内に従うことがこれまでの自分の生き方であったことを考えれば、自分で目的を立てないでいると、自分では何もできず、何もしないという状態のままでいてしまう。

自分が目的の有無を自覚することなしに、自分の欲求や動機に従って人生を方向付けられる人間であればどれほどよかったか。おそらく自分は元々そういう人間だった。しかし過剰な適応と自分殺しの結果、自分は意思を持てない人間になった。そうした自分はひどく生きる適性を欠いているのである。

このような自分には死ぬ以外の道が残されていないが、それでも生きると決心したのであれば、目的を自分のものとし、自分の人生を自分で方向づけられる人間にする必要がある。自分の同一性を回復させようとするならば、自分で自分を導くほかにない。