人生

やっていきましょう

572日目

バカをやる、思考を捨てるということが一種のストレス発散になっていた時期があった。当時の自分は敢えてそうすることが面白いと思っていたのであり、またそうすることが本筋ではないと認めており、いつでも元の自分に戻ることができるという自負があった。

しかし数年たった今だから気付いたことだが、実はそれこそ自分の本筋ではなかったのだろうか。本来的に自分はバカであり、無理をして知的ぶったり自分に理性を押し付けてきたのではないのか。これまで無理にやせ我慢をして、自分の能力のキャパを超えた思考の重圧を長期的に与え続けてきたが、そうした自分は本来的な自分であると言えたのか。

もう少し厳密に言うと、本来的というのは本来の自分の能力や価値観、思考形態に基づいて適切な目標や判断を設定できているかということである。自分が無能であるならば、無能なりに初歩的なレベルの目標から立てていくべきであった。だが自分はそのようにせず、無意識に自分の力量の1つ2つ上のレベルを自分のあるべき力量であるとした。

自分の実力に見合わない目標を長い時間抱え込んでいると、自分の力量がそうであるように錯覚してくる。自分はただそれを無理をして目指しているだけなのだが、目指すという行為によって理想と頻繁に一体化していると、習慣的に蓄積された事実によって、その理想が自明のものとなる。

解像度が低いまま理想が自明のものとなると、理想と事実の区別が曖昧になってくる。理想の物語の中にいて理想を目指している自分と、事実に基づいて自分を評価する自分は、どちらも自分から見た自分である。だから違いをよく意識しなければ混同しやすい。その上、理想を抱いているという感情的な体験の方が、自分の見ていない、見るのを拒んでいる自分よりも遥かに「自分らしい」ので、「自分から見て自分はこう思うから」という理由で安易に、理想と一体となっている自分がまさに自分であると錯覚してしまう。

受かってもいないのに大学や企業を語る受験生、未婚のままなのに結婚を語る売れ残った独身、結果の出ないワナビーには耳の痛い話だが、自分もまさにそのようにして自分を見誤ってきた人種であった。目標ばかりは威勢が良いが、いざその重圧を辛抱強く持続していかなければならなくなってからというもの、その重圧に耐えきれなくなり、わざわざ「これは本来の自分ではない」という言い訳までつけてバカをやって、それは遊びだと自分に言い聞かせてはプライドを守ったつもりになっていた。だが実際は枷を外して本来のバカに戻っただけであり、まさしくそれこそ自分が誤魔化そうとしていた事実そのものだった。

ところでこうした不都合な事実ばかりに最近の自分はフォーカスしがちになるが、自分の実力以上の目標を立て、混乱と不安に晒されながらも辛抱強く取り組もうとしたフェイクの自分もまた自分なのである。こんなことは大して褒められたものでもないが、コンプレックスに裏打ちされたしぶとい執着心が、仮にそれが虚構であれ、自分という人間を形成してきたということもまた事実だ。自分に見合わない条件を自分にかけ続けるという非道な虐待を行わず、自分の価値観を第一に考え、自分を労り、適度にバカをやって足るを知る人生を送る、ということもできたはずだ。だが自分がそうしなかったのは、結局のところ、それが自分に合わないと思っていた(あるいは思い込もうとしていた)からだ。

このようにして考えると、すべてを投げ出してバカをやろうとする自分も自分であって、やせ我慢して賢ぶりたい自分も自分なのだと思う。どちらも今まで独立したものとして捉えていたが、よくよく考えてみれば自分からは切っても切り離せない側面である。

そういう目線で見れば、今書いている572日続いたブログも、やせ我慢して無理をしてきた自分をどうにか蘇生させようとして、自分の実力以上の問題について小難しいことをあれこれ考えている程度のものでしかないように思えてくる。自分が必死に言語化しようとしていることの動機は、まっすぐな好奇心と探究心ではなく、どうにか劣等感を克服したいという不安の表れである。

滑稽な話だ。自分は572日間(厳密には0日目も含め573日間)も自分の精神的支柱であるところの「実力以上の問題に挑戦し続け、元々バカな自分を否定する自分」を取り戻そうと試みているのか。そう考えると自分の心の歪みがどれだけ根深いかを考えてぞっとする。これこそバカのやることではないのか。