人生

やっていきましょう

575日目

自分の対人面での問題は、第一に自分から積極的に参加しようとしないこと、第二に相手に選択させることの2点が顕著である。

例えば現実の自分は、自分から話題を振るということをほとんどしなかった。常に相手から話題を振られるのを待っている。振られた話題についても、本当に最小限の返答しか行わなかった。

そして自分は相手に選択肢を与え自由に選ばせる。どのゲームをするか、何を食べるか、どこに行くか、こうした問いを投げかけられたときに自分は「どれでもいい」と答えていた。

これはどういうつもりだったのか。大部分が自分の振った話題が相手に関心を持たれないことへの恐れ、自分勝手な話題を振って相手の気分を悪くすることへの不安などがあり自然とこうなってしまった。

ではこれは相手の立場から見ればどう映るか。相手から見れば自分は、自分から絶対に話を振らない人間、振られた話に対して話題を広げようとしない人間と映る。そこからこの人は自分の話に興味が無い人なのかもしれないと考える。それで以降は、特に必要がなければ関わらなくなる。

明らかに自分は対人関係において自分の都合ばかりを見ている。これは悪意があるという話ではなく、人と交流した結果自分が傷ついたらどうしようという一点のみに関心が向けられているということだ。そこに悪意はないとしても、コミュニケーションの放棄と見られても仕方のないことをしている。自分に大きく欠けているのは他者に対する想像力だろう。

ではどうするべきか。とにかく自分は、話したいと思ったときに特に理由がない限りはコミュニケーションに参加する必要がある。相手がこれくらい察してくれると下手な期待はせず、要望は伝える。提案をするときはする。自分の関心を表に出す。それが他人の心象を悪くし、それが原因で疎遠になったとしても、自分の考えを伝える。

無論これは自己中心的な要望を好き勝手に押し付けろという意味ではない。相手の都合を恐れすぎず、相手の都合を侵害しすぎない範囲で自分の考えを適度に出していくことを言っている。当然そんな理想は実現しない。大抵は相手の都合を侵害する結果となる。

ここで自分の想像力の欠如の話に戻るが、相手のいずれもが自分の都合を侵害されたことに対して神経質であるわけではない。自分の身近な人間は大抵神経質であり、それが原因であらゆる人間が神経質であるかのような錯覚を覚えているが、決してそうではない。このことを裏付ける経験もこれまでの人生で何度かしてきている。そのことを冷静に受け止めた方がいい。

相手もまたこれまでの人生を背負った一人の人間であり、その結果ヤマアラシのジレンマのようなものを対処する一定の態度を身に着けてきていると想像することができる。当然この期待から外れた自分のような人間もある程度は存在するが、すべてがそうではないということを認めることができる。

おそらく自分も相当神経質な人間になっている。自分の都合を侵食されたことに対して神経質な彼らとは異なり、おそらく自分の場合は相手の都合を侵食することに対して神経質なのだ。こうした加害恐怖を小さい頃から抱いているが、この認知の歪みが対人恐怖へとつながり、コミュニケーション不全を招いているといえなくもない。

ここで自分は別に相手を傷つけても良いのだと考えた方がいい。コミュニケーションにおいて誤解や無理解は当然起こり得るものであり、それが原因で毎日世界中で争いが起きている。それをある程度はお互い様と受け入れられているから、多くの人間はどうにか意思疎通ができている。

自分は自分以外の相手に対して正体不明の恐怖そのものというイメージを抱くのではなく、自分と同じ条件下に置かれたプレイヤーの一人であるという認識を持ったほうがいいだろう。そのようにして初めて相手というものが見えてくる。

ただし共有しているのは環境や話題などであって、当人がそれをどう解釈するかということは人によって異なる。その解釈はこちらの意図した通りには解釈されないかもしれないし、相手もまた自分のことをそう思っているかもしれない。

いずれにせよ、相手がどう思うにしろ操作できるのは自分だけなのだから、自分の意図を歪んで捉えられることを恐れるよりも、そうしたケースに遭遇した場合どう自分が対処できるかを考えた方が良い。

昔の自分はそうしたケースにあっても尚、相手と自分が分かり合える道を模索していた。とにかく万人に対して話せばわかると思っていたからだ。それで元通り、良好な人間関係が維持されれば良いと思っていた。

だが無理矢理他人に合わせようとした結果が対人恐怖であり、社会不安なのだ。だから自分は自分の行動を煩わしく思い不快に感じる人間に対して、ある程度は仕方がないと思うことにした。自分は加害する。自分は自分の利益や願望を求めた結果他人を傷つけ得る。予防はするが、すべては防ぎきれない。

自分はもう少し、相手のことを考えた上で自分勝手になるべきだろう。これは自分にとっては途方もなく難しいことだが、いわゆる普通の人間には当たり前のようにできていることだ。彼らにできて自分にできないということはおそらくない。