人生

やっていきましょう

576日目

自分の生存はただ無意味であるという至極当然の話に、どうして自分は2年間も煩わされているのか。なぜ自分は多くの人間が当たり前のように抱くような、生存をプラスに価値づけするような素朴な動機を持ちえず、死刑囚やガンの宣告を受けた重症患者が不可避の死に接近している中で遭遇するような、まったく意味のはく奪された世界を、自ら変容し介入することもできず、ただ眺めていることしかできないのか。

自分が生きていればいるほど、生存に価値を見出している人間の素朴な価値づけを見せつけられる。それに自分はもううんざりしている。自分がどれほど彼らに寄せようとも、自分と彼らは根本的に異なる。彼らにとっては無の上に立っていることなどまるで関心がなく、生存が気分の高揚によって自然と価値づけされているだけでもう、それが生きる動機になる。

彼らはまったく悪くない。この世界、この社会は生きている人間、生きようとする人間のためだけに存在している。結局、自分は彼らを妬んでいる。自分は生きることを決意し、生きることを欲していながら、自ら価値づけを行うことができないがために門前払いされている。それがただ悔しく思う。

歓迎されていない生をしぶとく生きるよりも、自殺をした方が圧倒的に楽であるというのは感じている。それはただ1回の勇気を持つだけで良い。歓迎されない生を生きるということは、生きようとする勇気を持続させなければならない。自分のように虚無を忘却できる材料が少ない人間は、生きることにも勇気を要する。

自分は生きる決意をした。その決意を持続させる勇気を培った。だが結局、自分は依然としてなぜか生きているという違和感の中に放り出されたままだ。誰も自分の生存について賛同はしないし否定もしない。自分にはただこの場に残るか、ここを去るかだけの選択が与えられている。ただ選択だけがある。そこで自分はいずれを選んだ場合でも、それが自分にとって何の救いにもならないことが分かっている。

自分は未だに、意味や価値が自明でないということに驚きと失望を抱える、というステージから前進できていない。ニヒリズムを自覚しながら生きるためには、価値や意味といった虚構と積極的にかかわらなければならない。なぜなら生は虚構に溢れているからだ。そうした世界で生きるとなれば、価値を見出せない自己に向けてペシミスティックな感情を抱くのでなく、積極的に価値を見出そうと励むほかに無い。

ニヒリズムを受容しながら生きるということはどれほどの困難だろうか。自分の妬みや悔しさの感情が起こるのは、自分のこの苦労に反して、多くの人間たちが意味や価値をそれほど難なく信じられているということからだ。彼らはニヒリズムを自覚する必要すらなかったのだ。それゆえ生に歓迎され、彼らが生に救われていることに嫉妬する。

この安易な決めつけは修正が要る。「多くの人間たち」とは、事実を言えばTwitterアカウントのタイムラインに情報を流すフォロイー全般のこと、あるいは自分がオンラインゲームで関わりを持っている人間たちのこと、もしくは自分がかつて関わっていた人々のことを指す。その限りにおいて意味や価値の喪失という言説を言葉として誰一人表出していないという事実から、自分は異邦の感覚に囚われているだけのことにすぎない(もっと言えば、彼らの中にも内心の葛藤があったかもしれず、言葉に出さずうまく平常を装っていたのかもしれない)。

世の中をもっと広く見渡せば、ニヒリズムを自覚する人間が大勢いるばかりか、その受容の在り方も様々で、そのまま自殺した者もいれば、うまく虚無感とつきあっている人間もいる。ニヒリズムから別の信条に鞍替えしてそれをただひたすら妄信しているような人間もいる。

こうした人間達の存在は、自分が生に適応できない悔しさを慰める理由にはならない。だがニヒリズムに陥った自分をどう方向付けられるかという手がかりを与えてくれる。

自分は普通の人間たちのようにはなれなかった。だから自分の現状を受け止め、自分に合った生き方を模索していくべきではないのか。