人生

やっていきましょう

605日目

自ら考える機会を自分で設けなければ多くは情報の受け身と惰性に流されてしまうだろうと思う。最近は考えることが面倒で、思考の挟む余地がない最も単純な部類の生活を送っている。こうした状況が自分のものの見方に与える影響を一度考えたほうがいい。

明らかに1年前と比べて自分の理解力以上の何かを意識しようとすることがなくなった。単純で暫定的な理解で済む情報に浸り、自分の手に負えない問題は視界から消した。分析も整理も挟まず、何かを学ぼうという気迫も薄れ、すべてが面倒になった。

考えることが難しくなってきた。考えようにも自分の語彙力が足りず、言葉が浮かんでこなくなった。この状態は、自分がテコ入れをしなければ永遠にこのままであるという確信がある。あるいはこの先、もっと思考の解像度が低くなる可能性もある。

自分が向上心を持ち続けるほぼ唯一の動機であった劣等感が薄れつつあるということだろうか。自分は無能だが、無能であるとは認めたくなく、何かしら前進できるということを証明したがっていた。だがその思いは今ではもう薄れている。他人と比較してその結果に一喜一憂することに疲れたのだ。

おそらくほとんどの人間が、自分の限界に直面しているだろう。彼らはどのようにしてその困難に対処するのだろうか。自分の無能さ加減に開き直って単純な考えで済む世界観に逃げているのだろうか。自分の無能さを呪って半ば自暴自棄になって向上心の奴隷となるのか。それとも実力はともかく自分はできるという妄想を抱いて満足しているのだろうか。そもそも自分の内側で世界が完結しており、比較を必要としていないのか。

もし彼らが自分の劣等感に対して上手に誤魔化すことができているのであれば、自分もそのような人間になりつつあるということかもしれない。これはいいことかもしれないし、悪いことかもしれない。

自分の本心を言えば、まだ頑張りたいという思いがある。自分の実力を伸ばすために新しいことを学んで力をつけたい。だが劣等感の赴くまま七難八苦を引き受けることはしたくない。劣等感とは別の、自分自身を満足させるための動機を持ちたい。

とはいえ、現状は惰性に流されている。思考を放棄した生活を送り、apexをプレーするだけになっている。記録も面倒になって手を抜く日が多い。にもかかわらず、そうであることの自覚が持てなくなっている。気がついたら3日経っていたということが何度もある。

実力以上の問題に挑戦して折れた経験を理由にそのまま自分の殻に籠り精神の安定を維持する日々をただ送るのか、もう一度殻を破って再起を図り何かを挑戦し直すのか、常に自分は問われている。このことを忘れてはならない。

自分は生きると決意した。だがその決意とは惰性の安定の中で現実逃避の日々を送ることだったろうか。今一度、このことについて考え直す必要がある。