人生

やっていきましょう

607日目

何かの知識を習得しないということは、それまでの自分の知恵や経験をただ使い回すということを意味する。もちろん有用なものであれば大いに構わないが、それが惰性の産物であるならば結局は自分を追い込むことになる。

知識は自分のものの見方に強い影響を与える。絵描きが技法を学び模写をするようになるとモノの形状に意識が向くようになり、医師が症例を学んでから普段の生活の中で相手の体調をつい観察してしまうようになり、英語の学習者がテレビに流れる英語をふと聞き入ってしまうようになるのと同じように、知識は自分が習得した方面の問題をより明確かつ具体的に認識させる。何も知識を持たなければ、自分のように抽象的なことを手探りで言う他になくなる。

世間で言われている通り、知識一辺倒の詰め込みには自分も難色を示している。とはいえ自分に明らかに足りないのは自由な発想ではなく圧倒的な知識量だということもまた気づいている。自分が勉強しなくなってからというもの、自分の認識が実はかなり粗い部類に入ることを認めなければならなくなっている。これは深刻な問題だと思う。

以前記録の中で自分の政治的立場や経済の流れについて全く考えを出すことができなかったことを思い出したが、これはほとんどすべてのことに当てはまる。生活上の知識、法律の知識、時事の知識、科学の知識、いかなる場合であれ、自分が知らないことについてはほとんど何も言及できないという事実を突きつけられる。

こうした障壁は創作をする上でかなり厄介な問題として現れる。そこに描くべきものが描けないということなので、創作の自由度が減ってしまう。例えばSF要素を取り入れたいと思っても、前提知識が必要になる科学的表現やガジェットの構造といった描写で躓いてしまう。とある王国の内乱を描こうにも、実際の内乱を知らないために描写にリアリティが欠けてしまう。人と関わったことがないので、人間の感情表現や関係のすれ違いを描くことができない。自分にできることはRPGというフォーマットに沿って不完全な人形遊びをすることだけである。

今から創作のために知識を増やしてゲームを改良するつもりはない。そうなるとゲームは一生完成しない。だがある程度日常的に知識を習得していく習慣をつけることで、無意識にゲームにも反映されるかもしれない。

自分はできるだけ知識を増やしたいと考えている。だがそれについて2点、確認しておく必要がある。

まず知識は全て分散しているわけではないということだ。すべての知識は、今の自分がそうであるように、無知の混沌という前提から議論を始めなければならないわけではない。それは古代人の役割であって、大抵の知識は多くの先駆者たちの貢献によってある程度は体系化されている。もちろんこれらは自明ではないし、誤りを含むこともあるだろうが、これらの積み上げられた努力の結晶は、日がな一日Apexで一喜一憂しているような自分程度の思いつき以上には信用できるものである。なぜなら自分に対しては自分がそうと思わない限り明確な批判に晒されることは無いが、積み上げられた体系とはまさしく常に多くの批判に晒されて尚もそこに残っているものだろうからだ。

ところで体系づけられた知識は大抵、基礎と呼ばれるものを持っていると思う。根底となる定義のようなもので、それらは先駆者によって確立されたものだ。知識を学び習得する人間が恵まれているのは、この基礎をただ再現するだけで済むということだ。先駆者は無知の混沌の中から情報を切り出し分野を開拓しなければならない。そうした試行錯誤はおそらく基礎を再現する以上に困難だと思う。そして多くの労力を費やさなければならない。

自分は知識の体系が存在する中で、無知の混沌から基礎を見いだそうとする愚かな人間だ。現代における賢さとは既存の情報を素早く的確に吸収し、その組み合わせで何かを生み出そうとすることであり、無知の原野に立ってマインクラフトをすることではない。大人しくwikiを見てレシピとテクニックを学び再現に徹すること、それこそ今の自分に必要なものである。なぜならそうして初めて、自分の見えていない部分にまで視野を広げ、直感を及ばせることができるからだ。

次に体系それ自体を盲信しないことだ。体系化されている知識がなぜ体系化されているのかを考えたとき、必ずしも批判の中で熾烈な選別を生き抜いてきたからという訳ではないものもある。

例えば巷で話題の陰謀論は、体系に対する盲信を前提として体系づけられているように思える。自分の信念を強化するための情報ばかりを集めようとする人間の特性がある以上、これらが知識の体系化の動機となり、自らの制御が効かないまま、無自覚に体系を神格化する恐れがある。その当事者は体系を「学んで」いるつもりになっているが、実際は信念の強化の方便を吸収しているにすぎない。

自分が何かを学ぶときは、自分が何を学んでいるかということに自覚的になり、その体系がいかに自己批判を行なっているかに注目する必要がある。また自分の方でも複数の情報を比較して、妥当なものとそうでないものを見抜く力をつける必要がある。ただ何もせずそういうポーズだけをしているのではなく、実際に知識を獲得しに行く過程でそのことを自覚する必要がある。

その上で気をつけなければいけないのは、自分があらゆる知識を拒絶しようとしないことだ。自分の傾向として何も信じられないという状態に陥りやすいが、何も信じられないのは信じた結果起こりうるリスクを判断し対処する能力がないということを告白しているにすぎない。自分の中で仮説を立て、根拠を持った上で一旦信じてみて、駄目ならその知識から離れるという方針を立てられるなら、恐れずどんどん行動を起こしていっても良いのではないか。

実際知識を必要とするゲームで経験してみて分かったが、信じた結果被るリスクというのは千差万別であることがほとんどだった。つまり、知識を恐れ拒絶するメリットがそこまで感じられなかった。

すべてが100%のリスクではない。大抵は知識の言う通りにしたところでそれほど問題にはならない。これは問題が存在しないということでも、常に問題が取るに足らないものであるということでもない。問題に対してリカバーできる方法が思った以上に存在するため、知識を吸収するリスクはそれほどでもないということだ。

自分は知識を無差別的に疑うのではなく、有用な知識を選別しそれらを自分のものとして信頼することを学ばなければならない。いかなる分野であれ、またいかなる知識であれ、自分の考えた仮説がいかに稚拙なものであるにせよ、一旦は信じて学んでみる必要がある。おそらく何度も失敗するだろうが、その都度失敗から何かを学んでいけばいいと思う。それくらいのリスクは自分に課すべきだ。