人生

やっていきましょう

609日目

久々に創作を開始した。事前に計画を立てて取り組んだが、開発は順調であるとは言えない。セリフを考えるのに行き詰まっている。

セリフを作るとき、自分は何よりも語感と即興性を大事にしている。語感は文章の可読性を高めるために意識をしている。下手に装飾を施すのではなく、一読して意味が把握できるような言葉を選んでいる。即興性は会話らしさを保つために注意を払っている。これがないと登場人物がただセリフを読んでいるだけのような印象を与えてしまう。

自分が優れたセリフの書き手だと思う人々は、その言葉に脱力した印象を覚える。言葉が切り貼りされたものではなく、一連の流れとして自然に感じられる。簡単な言葉遣いであっても、文語的な表現であっても、ブレずに流れている。それがセリフの応酬の中で絶えず維持される。

この脱力を表現するのが難しい。自分のセリフは簡素さを意識すると中身がなくなり、言葉らしさを意識すると辿々しくなる。少なくない作品ではこの辿々しさと中身のなさを当然のように受け入れている。だとすればやはり自分の気にしすぎだろうか。

最も困難な場面は笑いのシーンでの脱力である。ギャグを意識するとき、作り手の笑わせてやろうという意図が見え隠れすると途端に面白くなくなる。前文と後文との間をシームレスに繋がる自然な流れを演出しながら、それが意外性のある即興によって笑いに昇華され、かつそれが後味を残さず自然に消える笑い、それをどうにか演出できないかということを考えている。

これは自分の偏見かもしれないが、日本でよく見る笑いはボケに対するツッコミの存在が大きい。笑いのシーンといえばツッコミ役が必ずと言っていいほど現れてそれはおかしいというオーバーな表現をする。

これ自体はかなり面白いが、笑いが場面を切断するという点に違和感がある。作り手が恣意的に切断したという印象がどうしてもつきまとってしまう。自分はそうした操作を極力排除したい。

自分が演出したいのは、作り手は流れを保ち続け、読み手が勝手に切断してしまうような笑いだ。自分がボケに徹して、読み手にツッコませる、と言ってもいいかもしれない。

これは自分が以前見たアメリカのアニメの笑いに多かった気がする。あるいは以前見たビートたけしの映画がそれに近かった。ボケが場に溶け込んで自明であるような空気が支配し、そのまま話が展開する。ツッコミがいないわけではないが、希釈されてあまり出しゃばらない。

自分の創作では勢いよくボケをドライブさせるキャラクターを1人配置している。これは主人公ではないが、この存在が主人公以上に重要である。作中では味方にまったく相手にされないが、唯一ストーリーの目的を共有せず独立している存在である。ストーリーの外からストーリーの破壊を試みる存在として現れるが、結局はストーリーに飲み込まれて脇役に押しやられる。

この存在が発する笑いはどのようにあるべきかと考えることに多大な時間が投じられている。語感と即興性はもちろんのこと、それは物語の側のロジックとは異なるものでなければならない。

主人公たちは物語を進めるという共通の目的を自然な語感と即興性をもってセリフにしなければならない。対するこのボケは物語を破壊し、事実の暴露と虚構の冷笑を行うために自然な語感と即興性をもって現れる。この両立が難しい。ボケが強すぎても興醒めするし、物語だけでもそれは面白くない。

この脱力の探求には終わりがなく下手をすれば10年はかかるだろうが、ゲームを完成させることが第一である以上、今ある実力でできる範囲に留めたい。とにかく自分は完成させるということだけを考えなければならない。