人生

やっていきましょう

610日目

即興と語感の話を書いてからしばらくそのことについて考えていた。自分がその2つのことに異様な執着を見せるのは、自身のコンプレックスによるものだと思った。

単純に苦手という話ではない。本来自分はその2つを自明のように扱っていた。だが自分はある時期からそうすることを自ら禁じた。ひとたびそうしようと思えば、また誰かが同じようなことをしようものなら、自分の中に嫌悪の情が湧き起こり自責を行うようになる。

即興と語感にまつわるこの種の自己否定の原因は、結局のところ発言それ自体の責任が持てないことにある。即興で何かを話そうとするとき、その言葉がいかなる意味を持ちどのような影響を与えるのかということを考えていたのでは直感が霧散し言葉のタイミングを逸してしまう。即興的であろうとするならば人はある程度軽率でなければならない。

しかしある程度確かな社会性を保とうとするならば、軽率であることは真っ先に修正される必要がある。自分の軽率さが招いた結果に責任が持てないのであれば、予め自分に禁じて表に出ないようにしなければならない。自分はおそらくそう考えて自分の言葉を捨てた。

その結果、自分は人前で全く話せなくなった。文字通り本当に言葉が出なくなった。いかなる言葉であれ口頭での即興は軽率の産物であることを考えると、一切を黙するほかになかった。社会が立場のある人間の「失言」に人々が躍起になる様を見ればわかる通り、口で言った言葉は修正できないのだ。

自分は立場のある人間が異様に監視され、「失言」の特定に奔走する衆目が同じように自らを監視して「失言」と解釈されうるいかなる表現も禁ずることをしないというのが不思議だった。当然「失言」をした人間が悪いのだが、全く「失言」をしない人間など自分には信じられない。それが「失言」かどうかが聞き手の判断に委ねられる以上、自分が意図した配慮から漏れた人間たちの被害者意識によって、自分の意図した配慮はなかったことにされる。だから万人に配慮しようとするならば何も言えなくなる他にないはずだ。

自分は自分の発言の影響にすべて責任が持てないということに自覚的であり、かつそのことを申し訳なく思ってしまったために人と会話することができなくなった。だが内心ではそうした他者への過剰な配慮をバカらしく感じているし、多くの人間が日々垂れ流す配慮も自重もない言葉を見ていると、自分の枷がいかに無意味な束縛であるかを実感する。

こうした行き場の無さが自分を文章に向かわせ、枷を外し配慮をなくした直感的表現を生み出す動機になる。しかしこの配慮の病は根深く、どうしても際立って配慮に欠けた部分は先回りして修正してしまう。だから単に直感を垂れ流す以上に難しい。結局は全方位の配慮を蹴り飛ばし自分が面白いと思える笑いを表現するのだが、第一にそれが特定の集団や思想、教義を揶揄するものではないということ、第二に自分の良心に従って許容できる範囲ラインを定め、常にそれを超えないものを採用すること、第三に殴る対象をゲームの登場人物、組織、集団、思想等に留めることといった制限を無意識のうちに敷いてしまっているし、気がついたらそれを守っている。

だがこれくらいの制限ならむしろあった方が良いように思う。自分の思想を広める道具として笑いを利用するとむしろ面白くなくなるということが分かっている。敵対勢力がバカであると蔑む笑いは、自分もバカであるという前提があって面白くなる。これは配慮というよりは何らかの恣意性をぶち壊すことがそのまま笑いに繋がるからだ。

創作という聖域の中で自分は希釈された差別を延々と繰り返している。だがそのことに過剰な配慮をしなくて済むというのは随分と気が楽になる。本来なら現実でも同じようにしたいところだが、未だに他者と関わるうちに自分のふとした言葉の即興が他者を侵害し得る加害性を持つということに自分は責任を持ちきれない。

実際、自分はどうすればいいかわからない。ある人間の話によれば、正しさの判断はまさしくその言説に与えられた権力の強さに由来するというが、最近はそのように感じることが増えている。力のある人間は自分の好きなように言葉を発しその影響を省みることがないように思う。

難関大学に受かった人間は、そこに与えられた権威を前提に、受験の正当性を支持するだろうし、そこに説得力を持つ。恋愛がうまくいき結婚し子どもが産まれた人間は、そうすることが社会的に歓迎されているという事実によってそうある自分を肯定するだろう。apexでプレデターに辿り着いた人間が、たとえ好き勝手な気分でこうした方がいいという話をしても、プレデターに行ったという事実が与える説得力をもって正しいものとして歓迎されるだろう。

自分がそうすることができないのは自分が無力であり、何らかのオーソリティを背景に持たない(持っていたとしても表に出さず否定する)からである。したがって何が正しく何が間違っているかを必死に配慮することになる。

自分は明らかに弱者の側の人間だ。価値は相対的と割り切って自分はこう思うと堂々と言える人間の方が強い。自分はその言説の無根拠さを自覚している。自覚しているからこそ素朴に支持することができない。しかし自分もまた、言葉に配慮するということに権威を与えている人間の一人である。この権威は道徳という自分に深く根ざす至上の規範によって裏付けられているが、この種の制限もまた他の言説同様、結構いい加減なものであるということを自覚してもいいと思う。

自分は道徳からの逸脱を恐れてはならないと思う。恐れに支配されて支持する道徳は、本来の道徳的意義を失わせ、他者の逸脱を極端に不寛容にさせる(10代の頃、かつて自分はそのような時期があった)。道徳はまったくの偶然に生じた解釈などではなく、あるいは絶対的に正しい神の経典としてあまねく民に君臨するわけでもなく、少なくとも何らかの制限の必要から存在しているということを自覚する必要がある。このように道徳が制限する範囲をひとつの要素として自覚することができれば、配慮を盲信し、あらゆる言葉を制限することが虚しいということが分かるだろう。結局のところ自分は恐怖に支配され何が正しく何が悪いという仮説を立てることができておらず、混乱していただけだ。

言葉が出ないという自分の精神的な問題は依然として残る。ただそれは自分が直感や即興や語感、及びそれが制限される必要性と恐怖だけに意識を向けて、分析的な思考を働かせることがなかったからではないかというのが最近の考えだ。自分は物事の関係性に注目し、どこまでの範囲を配慮し、どこまでなら逸脱できるかを考える必要がある。その影響は何であれ、大抵のものは自分の恐怖が見せるほどには破滅的な結果をもたらさないと信用することができる。なぜなら多くの人間が好き勝手な言葉を吐き出しても、発した人間はおそらくただちに自殺に追い込まれないからである。

だから自分は少しずつ言葉を出す勇気を持つべきだ。文章の中の温床に限らず、現実で使える言葉を増やしていけたらと思う。結局のところ失敗と成功の経験不足、及びそのフィードバックの不在が、自分の世界観を妄想的にしているように思う。自分には言葉の試行錯誤を繰り返す機会が必要だ。