人生

やっていきましょう

615日目

他者を前提とした言葉遣いの難しさについて考えていた。他人に対してどのような言葉を用いて交流するのが適切なのか。この問題は、人とほとんど関わらなくなってからも自分の関心事であり続ける。明確な答えは未だに分からない。

かつて自分はこの問題に苦しんだ。いくら自分の側が接近の努力をしたところで言葉には違和感があり、また他人も訝しげな顔をした。この不和の正体は、自分がその場を支配する空気、すなわち明確に言語化されない自明の前提から独立して理性のみで伝達可能な言葉を選択していたこと、及びその不完全な表現が共有されない経験からくる不安と緊張が相手の不信感を買ってしまっていたということだ。

会話はフィーリングであるという単純な理屈に気づくのに十数年はかかった。それは明確な答えがあるものではなく、即興的に場の空気に適した言葉を自分の感情に乗せて相手との信頼感を共有しようとすることだった。

しかし自分はそうすることが苦痛だと感じていた。かつて自分が他人とフィーリングを共有しようとして一時期ネットスラングや定型発達的な表現を使おうと努力したこと、その度に違和感に苦しむことになった過去を思い出す度につらくなる。結局自分は自分の言葉を捨て他者に媚びた表現を使っていたから違和感に支配されていたのだ。

2年前に自分の中の自明性が失われて以来、他人に媚びる動機が完全に失われた。自分は無理に他人に好まれる必要はなく、また他人もそれほど好まないだろうということが分かったからだ。

定型表現を使って交流できる人間は、定型表現を用いることが自明であると思えているから使っているのだ。だが自分はそうではない。自分は同じ日本語話者とはいえ、彼らとは異なる前提を持ち、常に外からやって来た部外者である。

これは異国における自文化に対する異文化の優位に近い。自らを支配する自明性の外側で機能する別の自明さがその場を支配している。そこにアクセスするためには理性による接近を必要とする。だがその努力は自分を過度に痛めつけることによって成立する。そんな無理を自分はこれ以上続けることはできない。

自分はふたつのことを意識するようになった。まずは他人に媚びず自分の言葉を大事にしようと思った。それにより他人の不満を買い、自分から離れることになっても良いと思うようにした。なぜなら他人に媚びたところで相手は自らの自明さに没入するだけで、こちら側の前提に接近しようとしないからだ。そんな他人の関心を無理に買うよりは異質なものとして自分の自明さを相手に突きつけた方がいい。

つぎに他人の自明さを何でも拒まないようにさした。あまりにも看過できないものでなければ、自分は他人の自明さと交流することを恐れてはならない。自分が好ましいと思うものであれば自分の中に吸収する。自分が納得して関わる分には拒絶する必要はない。その中で他者との交流の回路が生まれることもあるかもしれない。

自分は多くの人間たちと同様、いかなる場合であれ自分という前提に立って他者と関わる必要がある。他者は他者の都合をねじ曲げて自分に合わせることはないのだから、自分は自分の都合で生きて良い。自分はそう思うことにした。その前提に立った上で初めて他者と関わり、場合によっては譲歩するということを考える余裕が生まれる。だが前提は常に自分のために生きるということを忘れてはならない。