人生

やっていきましょう

616日目

自分の理解が障害されているとき、例えば自分にとって全く未知な情報に直面しそれを吸収できないとき、自分は情報を自らの不完全な感覚を通じて咀嚼しようと試みる。そうではなく目の前にある情報をできるだけそのまま理解しようと努めることが重要だ。

自らの感覚が信頼できるのは、その感覚が研ぎ澄まされてきた方向性と積み上げた経験が存在する領域に限る。自分の場合、「思いつきで文章を書きはじめ、漠然とした方針に向かって自由に連想する」という経験を人より多く積んでいる。しかしそのことは必ずしも何かの学習にそのまま応用できるわけではない。

学習、すなわち知識の習得とは、情報の連想ではなくむしろ正確な認知と記憶力が要求される。これは何かと問われた時にきちんとこれだと言える能力、ある目的にしたがって、対象を論理的な操作によって変容させられる能力、これがなければ話にならない。

それゆえ自由な連想はかえって学習の邪魔になる。連想を抑えそこに表れている正確な情報を把握しようと努めなければ、そこに存在しないことまでを読み取るようになる他、以前書いたように、自分の既知の情報を反芻し強化するためだけの材料として情報を摂取してしまう。

自分が理解できないものに直面したとき、自分は手慣れた連想的思考によって事態を把握しようとするのではなく、目の前にある情報をそのまま正確に把握しようとすることが重要だ。

例えば英語の文章で意味の取れない文章に直面したとき、そこに書かれた単語の組み合わせから漠然と意味を連想するのではなく、その無理解が単語に由来するのか、構文に由来するのか、文意に由来するのかを特定し、単語であれば調べ、構文であれば誤魔化さず文法通りに読み、文意であればその段落や全体の文章のテーマに参照して意味を把握するといった対処を行うべきだ。

このことを肝に銘じる必要がある。英語であれ何であれ、そこに見慣れない要素の関連があったとしても、自分の連想を起点として情報を把握しようとするのではなく、そこに書かれている情報を起点として把握する必要がある。この態度を維持することが、自分の学習には何よりも必要だ。いずれこの態度を試行する対象を見つけるつもりでいる。