人生

やっていきましょう

617日目

自分が無力であるということに苦しみ、焦燥感に煽られる日々が続いている。自分の進むべき方向が分からず、無駄な1日を浪費している今の自分に苛立ちを覚える。自らの方向性が定まっている人間たちの信念や勇気が羨ましくもあり妬ましくもある。それがいかに苦痛であれ、彼らは自分のように自分を見失うことがない。

自分は無力である。この劣等感は実のところ希死念慮よりも強く根を張っている。自分は劣等感という呪いによって生かされている奴隷である。自分の中から劣等感がなくなれば、自分は容易く自殺するのではないかと思う。

劣等感というのは自分の理想と現実のギャップが下に大きいほど強まっていく。理想の方では自分はもっと頑張れる、先に進める、結果を出せると思っていても、実際にその通りに行くのは極めて稀だ。大抵は妄想を具現化する前に頓挫する。

このとき自分は他人を責めることができる。例えば英語ができない自分が英語が難なく話せる人間を見て、その人に元々英語の適性があるとか、帰国子女であるとか、恵まれた環境で育ってきたからと合理化し、出来レースは馬鹿らしいと自分の無力さを正当化することができる。しかし自分はやらない。それが事実であれ、英語ができない自分という事実は変わらないのだ。

だがこうなると、本来適度な合理化で自分を誤魔化し肯定するはずだった心の余裕がなくなってしまう。自分は無力であるという非情な現実だけがただ目の前に広がっている。純粋に無力であることを直視した結果、それが自分を否定することに繋がり、ますます劣等感が強くなる。

自分はかつて大勢の人間がこの種の劣等感を抱え苦しんでいるだろうと思っていた。そう考えると彼らはなぜ強く生きることができ、自殺をせずにいられるのだろうと疑問だった。

しかし自分の周りの人間を観察すると、自分の人格を否定し尽くすほどの劣等感を抱える人間というのはそれほど多くないということが分かる。つまり彼らは自分の限界に対してある程度妥協でき、自分より優秀な人間に対してはイチローや羽生を仰ぐような目で、他人事として受け入れられているのだ。

そう考えると自分の劣等感は過剰だということが分かる。劣等感などなくとも人は生きていけるのだ。だがそうと分かっていても、身の程を知った振る舞いをするということが、自分はこの上なく恐ろしく感じる。

自分は自分を誤魔化すにはあまりに不都合な事実を見過ぎてしまう。妥協したら妥協したという事実が自分の意識から離れなくなる。自分より優れた人間が無数に存在することを他人事と割り切って考えたら、そう割り切ったという事実が頭から離れなくなる。

しかし事実をより正確に把握しようとするならば、自分は無力であるという「不都合な事実」もまた妄想に近いということが分かるだろう。なぜならそれらは事実の集合には他ならないが、大局的に見ればそれが不都合であるという傾向を持つ情報を中心に構成され、それをもって不都合であると解釈されているからである。

事実に基づいた解釈を行うことと、解釈に基づいて事実の収集を行うということは全く違う。自分は前者のつもりでいながら、実は後者の人間である。自分は「不都合な事実」という自分の不幸を嘆くのに都合の良い解釈を前提として、不都合な事実を集めてしまっている。事実を見れば、自分にとって都合の良い事実もいくつか存在することが分かる。

何のために自分は不都合な事実を直視しようとしているのか考える必要がある。それは自分が無能であるための免罪符として利用したいのか、『地下室の手記』にあった通り、自責をする自分に酔いたいのか。

そうではなく、自分が追い込まれている現状をできるだけ克服しようと望んでいるからこそ敢えて事実の毒を自分に与えているのである。この前提を忘れてはならない。

自分が無力であるということは事実である。しかし自分が無力であると認めることが自分の目的の到達点なのか。自分は劣等感が人一倍強い。しかしその特質を認めることが自分のゴールであるのか。おそらくそれ自体は全く意味をなさないどころか、かえって自分の障害になるだろう。自分が挑戦という目的を自らに課す内において、はじめて不都合な事実を直視する必要が生まれる。さもなければ自分に妥協していた方がかえって自分のためになる。

自分は劣等感に支配されている。それによって自殺が阻まれ生かされているという側面がある。だが自分は自ら劣等感を支配しなければならない。自分が無能であるという事実の奴隷ではなく、それを克服するために自分が無能であるという事実を進んで受け入れるようになる必要がある。