人生

やっていきましょう

619日目

思いつきはどうにも自分と切り離しがたい。自分がどれだけ否定しようと自分は思いつきの人間であり、それを止めることができない。今では多少はマシになったと思うが。

ネットや現実を見るとかつて自分が陥っていた偏りを自覚させるような言説をよく目にする。ようするに自分の内側で世界が完結しており、それゆえ現実を歪んで捉えていながら、しかしその含蓄の浅さ、薄っぺらさ、無意味さに無自覚な表現である。自分はそれを否定したがっていたが、否定したことで何を得て、何を失ったのか。今日はそのことについて考えたい。

自分が陥っていた偏りは、自分が自明に想起可能な情報を起点として、その情報のまとまりから連想できる新たな知見を無差別に価値づけしていたことである。これ自体は独創的な発想を持つ上で必要なものだが、しかし問題は無差別であるという点にある。この偏りに陥ると、自分の思いつきが現実の制限や事実以上に優越される。だから客観的に見れば全くの的外れな思いつきも、直感が生み出したまったくの真理であるかのように思えてしまう。

こうした傾向を実は大学を卒業するまで抱いていた。世間に対し、社会に対し、あるいは他者全般に対して、それを自明に押し通そうとしていた。こう考えると異常者でしかないのだが、それが実際に社会で通用せずあっさりと切り捨てられたことで、自分は初めて思いつきの脆弱さに気づいた。

ふと陰謀論やカルトにハマりこむ人間について思うところがあった。もしかしたら彼らは、自分が陥っていた思考に類したものを内側に抱えているのではないか。自分の頭で考えて思いついた発想を至上の価値としたとき、その価値を自分に代わって正当化してくれる情報が救いのように思えてくる。自分の不安に対する答え、自分の疑問に対する答えが得られたとき、自分は間違っていなかったと安易に思いがちになる。

おそらく価値づけることの一般的な傾向としてこのような性質は多かれ少なかれ存在する。自分はそれをあまり否定はしない。何度も言うが、自分が否定したいのはそれを無差別に行うということである。すべてが自分の思いつきから端を発し、価値観に影響された偏った見方が自明のものとして扱われ、好きか嫌いかで意思決定が選択されるという性質を、そのまま現実問題の対処に充てるとどうなるのか。また自分の思いつきを起点とした場合、自分の知らない知識を必要とする問題についてはどう対処するのか。

自分の思いつきを優先し、現実を歪んで捉えることを自明としたら、それは現実に対してなかなか不都合なものになるだろう。思いつきは自分の知識量によっても限定されるため、自らの制限に意識が回らず、思いつきが自明のものとなれば知識の不足や誤解もまた自明のものとして扱われやすい。

そのような反省から自分は思いつきを否定し、極力現実的であろうと努めた。だがはたしてそれは妥当な判断だったのだろうかとも思う。自分が創作の後始末を行っているとき、現実的に考えて作ったものが全く面白くないということが何度かあった。結局それは現実の再現にすぎず自分以外の誰でも生み出せるものにすぎないからだ。

創作において歪んで捉えた思いつきは重宝されるべきだと考える。なぜならそれは、どれほど作り手が下手な人間であれ、その人の味となり、独自性に繋がるからだ。そこに創作のやりがいがあり、したがって読み手としても書き手としてもそうした独創性との遭遇が創作と関わる動機に少なからずなるだろう。

だが自分は以前ほどにはそのように思えなくなってしまった。思いつきは現実に駆逐され、現実的でないものには嫌悪が付き纏うようになった。その結果空想を楽しむ余裕がなくなり、自分でも味気ない、つまらない人間になったと思う。自分は現実への強迫的な適応に迫られ、自分の思いつきの価値観を自ら破壊した。

この過度な現実主義を自分は今反省している。自分は本来現実的な判断に優れておらず、だからこそこのように過剰な危機感を抱いてしまっていたのだ。だがそこまで神経質になる必要はないのではないか。

重要なのは価値判断と現実判断を切り分けて考えることである。いまこの状況で求められていることが現実的な問題の解決であれば、自分の思いつきを抑え、効果的な手法を学習し再現することを努める。それが創作や自省であれば、使い古されたパターンの繰り返しを抑え独自のアイデアを積極的に取り入れる。

このように判断をうまく両立できればどちらも過剰に否定することは無い。しかしこれは理想であってなかなか実現することは難しい。すでに自分はもう価値というものを全く信頼していないのだ。

自分が生きていく以上まったく価値を見出さず生きるのは苦しい。そこに意味がないとはいえ、できれば価値や意味と触れ合いながら生活したい。そのために自分は何ができるだろうか。今後はそのことを考えていきたい。