人生

やっていきましょう

620日目

自分は選択肢の自由な想定を行うことができるが、その選択が妥当なものであるかどうかの判断を自ら行う自信がない。したがって自明、非自明を問わず想定されるあらゆる選択に対して自分は他者に対して確認を行うことによってその妥当性を判断してしまう。

極端な話だが、誰かに「あれを取って」と言われた時に「あれ」とは何か自ら断定することができない。それがコップなのか飲み物なのかお菓子なのか皿なのか、何となく当たりをつけることはできても、それが相手の要求通りのものである確証(信用)がないためにいちいち確認をとってしまう。

そこまで単純でなくとも、例えば自分の知らないA→B→Cという過程を経る作業が存在した時、Cという指示だけが与えられた場合、AからBを経由すると先んじて想定できたとしても、まず初めに何をするか聞かなければ不安になり、それがAと分かっても尚、次がBである自信が持てないので次は何をするか確認してしまう(こうした態度は他者からすれば一見何も考えていないように見える)。

この自ら判断できず、他人の判断を経由して自分の判断の妥当性を確認するという態度が自分の中ではほぼ自明のものとなっている。だが他人にとってこうした態度を常に向けられることはおそらく不快なことだろう。なぜなら自分が放棄した判断を他人に押し付けているようなものだからだ。

確かに正誤判断を確実なものとするためにはこうした確認は有効だが、人間関係を構築する上でTPOを弁えない過剰な確認は、相手に対してかえってストレスになる。それが必要あっての確認であれば良いが、その確認作業には強迫的な反復(無駄)も多分に含まれており、それらを削減できるほどの記憶力を持たない自分にも一定の責任がある。そこで自分は常に他者に対して確認するという悪癖を修正しなければならないと思うようになった。

問題は他者への絶対視と隷従的な依存志向にありそうだ。この態度は自分が全くの無能であり、相手が自分以上に適切な判断力を持っているという前提で行われる。しかし他人は常にすべてを理解し、また常に他人の都合に合わせてくれるわけではない。他者が問題を正確に把握できていないこともあれば、自らの問題を対処することに忙しい時もある。しかし自分はそうした他者の都合を想像する力が乏しく、自分が他者と情報を正確に共有できないという危機感ばかりを何よりも深刻に考えてしまう。だから自分が特定できない情報は何でも確認しなければ気が済まなくなっている。

だがこの考え方は間違っている。自分が把握できていないことを何でも他人に質問する前に、自分の頭で一度考えてから質問した方がいい。なぜならこうすることで無差別的に行っていた基礎的な質問を概ね自己解決でき、それらを踏まえた上での質問を投げかけるだけで済むようになり、それによって質問と確認の総量を大幅に削減することができるようになるからである。

自分は他者に質問し確認するということを情報収集する上で最も神聖視している印象がある。それは自分が質問するという行為が、自分以外の存在から自分の判断に対して一定の正当性が与えられる数少ない機会であるからなのだが、こうした確認による安心の獲得は、必ずしもそのまま作業の解決に繋がるわけではない。むしろ作業の障害にすらなり得る。こんな回りくどいことをせずに自分で調べて自分で解決した方が早いのではないか。そう思うことが多々ある。しかしそうすることに自分は自信が持てないのである。

質問や確認は決して省略されるべきではない。その行為が存在することによって他者と同じ情報を共有することができるからだ。しかしだからといってそれらが過剰であるべきでもない。問題の細部をすべて余す所なく他者を通じて確認するとなると、相手にとっては非常に面倒なことになる。

賢い人間は質問や確認の要点を絞っている。つまり外すべきでない重要な部分だけを確認し、それ以外の瑣末なことはいちいち確認しない(自己解決する)。それが意図と外れていても大した問題ではなく、もし後々重要な部分であると分かればそこを修正している印象がある。

自分はこの重要な部分と重要でない部分の区別をつけることが苦手だ。だから全てのことを確認せずにはいられないのだ。だが自分はこの賢人たちの振る舞いから学ぶべきだろう。問題の要点とは何かということを断定することは難しいが、いまこの状況で何が優先されるべきかを考えれば、その傾向はうっすらと見えてくるだろう。

自分の記録はこの判断の良い訓練になりそうだと思う。この記録は他人に確認をしてこなかった情報に溢れている。自分の目で見た情報を自分の頭で考えた雑多な仮説で溢れている。もちろんどれも精査していない眉唾物に他ならないが、それでも何らかの問題に対して自分なりに答えと解決を考えようとすることは、自分の判断を他者の承認を経ずとも下す良い訓練となり、それがそのまま自分の自信に繋がることになる。

ただ忘れてはならないのは、それが机上の空論であってはならないということだ。忘れがちになるが、自分の頭の中で考えたことを実際に実践しなければ意味がない。さもなければそれはただの仮説でしかない。

仮説を実践した時、当然それはうまく行かないだろう。だがその外れ値を目的に沿ってうまく修正していくことで、自分の判断に経験という根拠を与えることができる。そうすることで自分は他人に判断を求めなくとも自分の判断に自信がつくのではないか。