人生

やっていきましょう

621日目

相手が自分に対して想定可能なものであるように自分を提示するということの重要性について最近考えるようになった。自他の前提は概ね異なり、究極的には互いに分かり合えるものでもないが、それでも異なる他者と並存していく環境の中では、自分が他者に対して想定可能な人間として表象することは重要であると思った。

それは他者に対して隷従的であれという意味ではない。他者にとって正体不明な存在であるということが相手にとって関わるリスクになり得るということである。大抵の場合そのリスクを冒してまで正体不明な人間と関わるメリットがないので、次第に周りの人間はその人から離れていく。そのことでかつての自分は人格を否定されたとショックを受けていたが、他人からすれば単に面倒事を避けたかったというのが本心だろう。

自分は最近までこのことに意識が向かなかった。自分は他者を恐れ、他者が自分を把握し得ないことに失望し自分の殻に閉じこもったが、そうである自分の都合だけしか見えていなかった。他者が自分を理解できないのは自分はこういう人間であるという対外的な広報をしてこなかったからである。他者にとっての自分は、他者自身が想定可能であるかどうかによって規定される。他者が自分に求めているのは、つまるところ他者が理解できる自分でしかない。

外向的な人間が薄っぺらいとよく言われるのは、この他者にとって想定可能な自己の形成に日夜時間を投じているからであり、自己の共有可能性のために己の内省を怠っているからである。だが今はそのことを冷笑している場合ではない。自分のような内向的な人間は、他者にとって共有可能であるように配慮された自己像を持たないために、相手の関心を惹くフックが何もない状態に陥る。そうした共有可能な自己への研鑽を怠っているからである。

自分は他者が共有可能な自己像を持つことに強い嫌悪を持つ人間だ。それは結局、確固とした自分を持たず、幼少期から自分が世間で通用しなかったことに対する自信の喪失から来ているのだが、こうした不安定で自己完結的な自己を自分の中で維持する動機というのは実はもうほとんど残っていない。単純にできないから惰性でそうなっているというだけで、できるようになれば自然に共有可能な自己を形成し始めるだろう。

その際、無理に他人の関心に合わせる必要はない。合わせた代償としてこちらの関心にも無理に合わせろという要求を突きつけたくなり、それが叶わないと自分はこれだけ人間関係の維持に犠牲を払っているのに相手は無償でサービスを受け取るのは不当だと他責の感情に支配されやすくなる。自分はかつてこの種の失敗を何度も繰り返した。

他人が関心を惹きやすい共有可能なフックをいくつか用意すること、そのフックの種類によって自分という人間を相手に想定させることは重要だが、その関心は無理や偽装によるものではなく、半ば本心からのものである必要がある。とくにその関心は別に他人を必要とせず、自分一人でも十分楽しめるものだが、他者と共有すれば尚一層楽しめるといった種類のものであると良い。その関心は他者が当然共有してくれると考え始めると歯車が狂い始める。