人生

やっていきましょう

625日目

自分はある時期まで抽象度を極力高めた文章を書いていたが、今では平易で単純な言葉だけを扱うようになってしまった。この心境の変化は言葉に対する探究心を失ったことと、そのような趣味に耽溺する意味が自分自身わからなくなってしまったことが原因だろう。

言葉の抽象度を高める行為は、情報を圧縮し高度な議論を行う上で、その抽象度が確かな基礎となる情報に基づいたものであると理解している共犯者と膨大な情報についての意思疎通を行う上では有用かもしれないが、自分の場合、徒に抽象度を高めたことによる閉鎖的な自己満足の美学に酔いしれるためのものでしかなかった。

それが確かな理解に基づいていたなら、自分はこの美学に今でも興じることができただろう。だが自分はそうならなかった。

自分がこの熱に冷めてしまったのは、こうした抽象表現が自分の確かな理解力に基づいていないことへの失望だった。自分は抽象の砦の中で何かを築いたつもりになっていたが、実際は気分の中で思いついた(自分の能力的限界を示す)単純な構造の中で、敢えて小難しい単語を関連づけるという言葉遊びを行っていたにすぎなかったのである。それは意味の関係というよりは語感やリズムに従って導かれたものだったが、そうした音楽的関心が覆い隠していたあまりにも雑な解像度に自覚的になると、今度はそうした無知を恥じるようになり、その反動として自分の中から多くの言葉を締め出してしまった。

このように抽象度を高めようとしたことを、どうしても若気の至りであると切り捨てたくなる。実際これまで何度もそう思い、その都度自分でも何を言おうとしているかが分かっていて、かつ誰にでも理解できるような、具体的でわかりやすい平素な言葉遣いを努めてきた。

しかし今日ふと抽象的であることの優れた側面について考えさせられた。それはあらゆる問題について細部に至るまで平坦な言葉で書き表すことの困難さについてである。問題によっては重層的で複雑な関係について言及する必要があり、それらは大抵、ある抽象的議論のからの推論として発展している場合が多い。自分が読解に頓挫した岩波文庫哲学書などがそれだ(思想家によっては読んでいてもよく分からない部分がある)。

安易に多義的な解釈を許容する日常言語から離れた問題について思索するために、抽象度の高い語彙とその関係性を、抽象度の高いままに理解する必要が出てくることがある。これを日常言語に落とし込み、可読性の高い語彙で再構築するというのは困難を極める。なぜならそのためには「わかりやすさ」という抽象度の高い問題をまず自分の中で咀嚼し、解決する必要があるためだ。

それでとにかく何でも抽象的な言葉を毛嫌いしようとするのはやめようと思った。抽象的な言葉が抽象的であるのは、それなりの理由があるということに想像力を働かせたい。それは科学的な要請から、自己満足の美学に至るまであらゆる理由が考えられる。それらの現状を無視して、ただ単に目を背けたい自分の過去を否定するためだけに、あらゆる抽象的表現を否定するのは愚かだ。

ただ自分の中ではっきりさせておきたいのは、無知を誤魔化す方便や理解の伴っていない背伸びのためだけに抽象表現を用いることだけはやめようということだ。その感情は自然に湧いてくるものだし、うっかりした時に出てきてしまうものだが、結局は自分の理解力の無さを露呈することになり、最後には虚しくなるだけだ。