人生

やっていきましょう

644日目

何も考えないでいると気分が軽い。先の見えない将来について、剥離した意味や価値について、劣等感について、死について、一切何も考えないでいると、生活と趣味の出来事だけが1日の関心を支配するようになる。まるで誰かが日記で書くように、今日はこんなことがあった。それにこう感じたというだけで満足してしまう。

これは現実を直視し高い志を抱こうとする態度とはまったく異なる。現実を放棄しただ楽な方向に流されて生きているだけだ。自立を断念し、中途半端な自己を無条件に肯定することの愚かさは、ただ自分を忘れることで解消する。何も考えなければ初めから問題は存在しないからだ。

この選択をしたことによる1日の影響は些細なものだ。その日は何もしなかったというだけのことだからだ。しかしそれが年単位になると事は深刻になる。自分は2年間現実から目を背けてきたが、その2年間に自己研鑽を積んできた人間とはもはや比べものにならないほどの差が生まれている。その2年はもう取り返しがつかないのである。

この深刻な事実に反して自分は今も尚思考を放棄している。その日の満足のために何も考えずにいて、気がついたら1日が終わっている。それで何が悪いのかとさえ思い始めている。自堕落さを否定する理由がどこにもないからだ。

人生に対して高望みをする人間は悉く不幸になる。であれば初めから勝負に出ず小規模な生活に満足するというのもひとつの考えだ。自分はその誘惑をどうにか振り払ってきた。しかし今ではまさに自分がそうなってしまっている。

人は自ら堕落しようとして堕落する訳ではない。自分の中では気がつかないうちに堕落し、そのことを忘れるのである。自分も記録をつけなければ堕落したことを忘れていただろう。だが確実に、その影響は蓄積している。

自分は最近複雑な思考と言語運用が以前よりも困難であることに気づいた。論理を構築することができなくなっている。また読書をする動機が完全に失われた。ただゲームに一喜一憂することが人生のすべてになり、そこに仮初の安心を見いだしている。

こうなることは予見できていたし、避けようと思えばいくらでも避けられたはずだ。しかし自分は惰性に呑まれた。ここから自分はどうするのか。まったく検討もつかない。