人生

やっていきましょう

649日目

自分は自分の持つ傾向や価値観をただちに否定されるべきものとして捉えている。しかし本来それらを否定する理由などどこにもない。自分が何を好み何を肯定しようとまったくの自由である。だが自分はいつの日かそうすることをやめ、自分という人間が壊れるまで悉く否定している。

ある力を持つ人間は、自分の価値感を疑うということを知らずに済むだろう。なぜなら彼の人生では自ら修正を行う理由がまったくないからだ。自分の価値感に反する人間はただ否定し拒絶すればいい。それだけの力が彼にはある。

なぜ自分はそうしないのか。力といえば自分には自分を否定し尽すほどの有り余る力が無尽蔵に湧いてくる。この力はほとんど四半世紀に渡って維持されてきた強固な価値観であり、それゆえなぜ自分が自ら命を絶たないのか不思議なくらいである。この力を自尊に費やせばどれほど満足な人生を送れただろうか。だが自分はそうしなかった。

なぜか。自分という人間は世間にとって不都合であり、それゆえ自分を捻じ曲げてでも世間に適応しなければならないという緊急の必要性を常に抱えているからだ。自分の特性を歪めてでもなお、社会は存続されるべきであると反射的に答えてしまう自分は隠れた全体主義者であり、自分が誇りを持つこと以上に自分が存在できない恐怖に屈した弱者である。

自分には誰が何と言おうとこうすると言える自信がない。誰かが自分の価値感を否定しようものなら、そういう見方もあることに同意し、自分の価値感に懐疑を向けるだろう。明らかに根拠のない暴言でもなければ、いわれてみれば事実そうなのである。

自分という存在が世間にとって不都合であるならば、自ら死ぬ他ないという考え以上にまったく妥当な結論を導くことができない。この単純明快な帰結を生理的な恐怖がただちに上書きして、何も死ぬことはないだろうと自分を誤魔化し、いまはただ細々と生きている。これほどの屈辱はない。しかし自分は死にたくないわけではないのである。

どこまでも弱弱しいことしか言えず、自分が情けなくなる時がよくある。こうした考えすら誤魔化し偽りの自信に身を沈める者もいる。だが自分はそうしない。自分は無力であるという現実をただ直視する。弱音は吐く。それを言葉として記録し、言い逃れできないようにする。そして改善に向けて自分を変容させる。それが自分にできる最大限の反抗だ。

しかし何をどう変容させたいのか、もはや自分では分からなくなっている。いまの自分は何かがしたいという思いではなく、苦しみを和らげ取り除きたいという思いしかない。能動的な欲求が枯渇しているのだ。だから結局、自分の苦しみを緩和する方向に人生が進んでいき、ある程度安定が達成された状態から以降は停滞しているのである。

能動的に何をどうしたいという思いをどのように湧き立たせるかということを考えるのは苦痛でしかない。自分が苦心して思いつくあらゆる言い訳は「本気でやりたい人は既に行動している」という一言によって封殺される。あるいは「結局自分にはやりたいことなどない」という一言で終わる。どれも事実であり、否定のしようがない。

自分が自分の信念を犠牲にしてまで勝ち取った生存は、無気力な人生の延長でしかない。自分ではそれが間違っていると分かっているが、本当に何も行動しようという気になれない。

本当に自分は自殺を止めたことが正しかったのだろうか。いずれにせよ今ではもう全く死ぬ気が起こらない。