人生

やっていきましょう

653日目

この数日間記録を書く動機が無かった。何かを記録しなければならないという切実な必要を感じなかった。それはすなわち自分の人生に対する切実な思いを失いつつあるということでもある。もはや記録は自分に意味をなさない。

こう思い始めたのは自分の中にある種の安定を得たからだと思う。問題意識を、問題そのものを放棄したことによる安定、一時的な仮初の安定だ。自分はそれに屈した。それは何かの決断によるものではなく、それらを曖昧にぼかし、自然の成り行きでそうなった。だから罪悪感というのもそこまでない。

一方で自分はこうも考えている。そうなることを恐れていたからこそ自らに記録を課してきたのではないのか。安易な平穏を得るためではなく成就困難な自分の理想を達成させるために、言葉を紡ぎ内省を重ねつづけてきたのではないのか、と。全くの事実だ。そうした悲痛の思いで自分は記録に取り憑かれていた。

だがすべては、それが何になるという思いに打ち砕かれる。自分が何かの意欲を覚えその成就のために行動する、まさにそのことが今ある惰性の安定を切り崩してでも達成しなければならないほどの価値を有しているのか。この問題について真剣に考えれば考えるほど、そうでは無いという結論が妥当であるように思えてならない。自分は生きて何かを達成する必要もなければ、価値を残す必要もない。何かが勝手にそうなるからそうなっているにすぎない。

自分の理想について触れておく必要がある。あまり思い返したくないことだが、自分は他人を克服したいという思いに長らく囚われていた。おそらく自分の価値観の根底には今でもこの思いが流れている。小さい頃から他人を極度に恐れ、自分の弱さに劣等感を抱いていたことが原因だ。

しかしそうした憎しみに近い感情も、よくよく考えてみたら意味がないことだと分かる。自分が他人を克服したことで、あるいは克服できなかったところで、何の意味があるのか。それにより自分は他者から賞賛を受け、自分の自尊心が高まるかもしれない。だがそれが何になるのか。あるいは自分が折れたことで自分の心は歪み、他人に対する憎しみや自分の不遇をますます募らせることになるかもしれない。だがそれが何になるのか。結局どちらに転んだところで自分の心には既に穴が空いており、もはや何も得ることはできない。

ならば何も無理をせず、成り行きに任せようと考える。これこそカミュの否定した不条理への没入であるように思う。ただ不条理に流され、人生の苦難に従順になる。結局自分もこの誘惑に駆られている。兎にも角にもそのことに自分が没入できるからだ。

思うに人間はこの人生の本来的な無目的さ、無意味さを直視しながら生きることはできないのである。今ある人間が自殺を行わずまだ生きようとしているのは、生物の本能としてもそうだが、自分が生きるに値するということ、あるいは値しないということを忘れるほどに生に没入しているからである。それが誤魔化しであれ何であれ、没入によって生存が自明であるという確信を我が物にすることができる。

問題は何に没入するかだ。記録を始めた当初は自分が生来渇望してきた他者への克服を純粋に達成しようとした。それこそ生命の危機にあり、自分の認識を根本から変える勢いで自らの思索を確かなものにしようとした。その自己改革は十分な没入を引き出し、気づけば1年が経っていた。

しかし自分は同時に確かな自尊心を得ようとした。それは他者の克服という先の問題とは別に、誰かと比較することなしにいまの自分を受け入れられるようになるということだった。結局自分は前者の問題以上に、こちらに没入することになった。自分は自分を極度に甘やかし、どれほど自堕落であっても良いと考えた。だから一切の社会的責任を投げ捨て、現実から逃げるようにゲームにのめり込み、本を読み、音楽を聴き、あらゆる映画を鑑賞した。

このように没入する恰好の言い訳が「人生に意味はない」という、もはや自分には聞き飽きた言葉である。何をしても他人は克服できず、自分の劣等感からは解放されないのだから、人生に意味がないということを都合良く持ちだして「自分は日夜apexにのめり込む。なぜなら人生に意味はないから」「自分は定職に就かなくてもいい。なぜなら人生に意味はないから」「自分は無能でもいい、なぜなら人生に意味はないから」と、自分が楽な方向に進む絶対的な根拠を与えている。

没入ができれば何に没入してもいいのか。まさにそこに自分の価値が試されているように思う。究極的にはそうだと言える。何をしようが自分で責任を取るなら勝手にすればいい。しかし本当にそれで良いのか自問する自分もいる。特に自堕落さに没入し、向上心を失いつつある自分を安易に肯定することには躊躇いがある。

自分は何かをする積極的な動機が持てないが、自堕落な生活を送り何もしない理由を人生の無意味さに求めたくはない。自分が生きると決断した以上、生きるに値する選択を行う必要があると思わずにはいられない。さもなければなぜ自分が死なないのかがわからなくなる。