人生

やっていきましょう

661日目

万全の知識とその関係が自分の元に提示されていない以上、あるいはそれに類するものが何者かの努力によって整理され確立されていながらその存在が自分にとって自明でない以上、自分の知識や判断の及ぶ範囲というのは極めて限られたものになるということは避けられないだろう。

極めて平凡に聞こえるかもしれないが、自分は常に途上にあり永遠に何かを間違い得る存在である。これは恐るべきことではないのか。地球上に何十億という人間が暮らしていながら、自分を含めその多くが何かの理想的でない行動を引き起こしており、何かに適わない結果を生み出し続けている。自分がうっかり何かをしてしまったら、それが何かの間違いを引き起こすことは容易に想像できる。そのため自分は、自分という人間が何も信頼に置けないのだという結論を早々に下しがちになる。そして何かを行動する機会を失い続ける。自分の無力感の源泉はここにある。

だが事実は、自分という人間の失敗が及ぼす影響などたかが知れている。正しく言えば、自分のあらゆる行動のすべてがただちに物事に深刻な影響を与えているわけではない。明らかに致命的でないものを除き、失敗は自他の努力によって事前に回避されるか処理され得る。失敗への恐怖がそのことを覆い隠し、本来の無機質な現実を歪曲し、自分の無力感を絶対のものにしているにすぎない。

この種の誤解は自分は全てを知り得るか、まったくの無知であるという極端な二元論に由来し、その中間にある様々なグラデーション、あるいはその両極が更に細分化されうる可能性についてほとんど無視していることから生まれている。中庸という言葉を安易な折衷の方便として用いることと同様、問題をどこまでも細部まで切り分けて整理する忍耐と知力を持たないために、情報量が少なく簡単に全体を覆うことのできる認知的負荷のない世界観を好んで使うということが自ら生来の、本能に近い怠惰として現れてくる。

この万能か無能かという二元論から脱し、自分が可能であると評価できる領域をどの程度、どの範囲まで、どれほど再現性があり、どれほど信頼できるかを強化・拡大し、保持できるかという問題に向き合うことが重要になる。極端な評価というものは、極端な結論となり、以後の修正や調整、確認を行う動機を失わせる。なぜなら絶対的なものはそのまま不変であるからだ。

たとえば自分が極度の自己不信に陥っているのは、自分を負の方向に絶対的な存在であると固く信じているからだ。自分は無能だということはある程度事実に近いことだとしても、それらを過度に誇張して捉えているために、自分の中で不変の真理として君臨し続ける。

誰かがそれを変えてくれるということは可能性としては起こり得る。だが自分のこれまでの人生の中で、自分の無力感を変えてくれた人物など現れた試しがなかった。結局は自分が変わろうとしなければ相変わらず状況は変わらないままである。

この変化を、勇気や自信という思いに求めるのではなく、できれば冷静な判断の組み合わせによって対処できるようにしたい。自分が行き詰まっている時は、このことを何度も思い出していく。