人生

やっていきましょう

665日目

数ヶ月前から精神不安に陥ることがほとんど無くなった。自分の感情が乱されるのは、ある具体的な問題の解決が困難である場合など、焦点が明確で全体を把握しやすいものである。そうした見える問題についてはブログに投げ、どうすればいいかを考える。次の方針を定めてからまた問題と向き合う。

こうしたことを繰り返しているうちに、自分には対処できず全体を把握できない不明瞭な問題、例えば自分のトラウマや対人不安、アイデンティティの問題、実存的危機、虚無感などに煩わされることが減った。意識してそうしているというよりは、本当にどうでもよくなってきている。数年前に始めた「価値や解釈ではなく問題の機能や仕組みを意識する」という認識の転回が、ここに来て自分の内面に安定を生み出しつつあるということだろうか。

逆説的かもしれないが、このような問題の構造を把握する訓練を自分に課したことにより、かえって自分が多くの価値や解釈を受け入れられるようになっている。

おそらく自分に欠落していたのは問題を正しく正確に把握する能力であり、そこが不安定であるがゆえに解釈に親しむという余裕が失われ、渇望し依存するか、さもなくば全てを否定するかという極端な二元論を取らざるを得なかったのだろう。奇妙なことだが、自分の生活が、自分の認識がとりあえず安定していれば、解釈や価値といったものが究極的に無意味だという確信に至ったところでだからどうしたと思うことができる。なぜならその時の自分は、ある価値や解釈から必ずしも束縛的な影響は受けておらず、安定を獲得し維持できる仕組みによって、それらの諸価値から独立して安定しているからである。

これまでの自分は、自分の解釈や価値というものが重大な生命線であり、それが失われると死ぬ以外にないとさえ思っていた。しかし自分の生命活動は、自分の価値観とまったく不可分なものではなく幾分独立していたものだった。人は安定という基盤さえあれば、価値や解釈に翻弄されず(あるいは持たず)に生きることができる。これは本当に無意味に聞こえるかもしれないが、自分の価値、自分の信念、自分の存在理由を持たなければならないという強迫から距離を取ることができるという点である程度自分の助けになる。

だが注意しなければならないのは、その価値や解釈に影響され(あるいはされずに)、自分が選択したこと、しなかったことが自分の人生、及び周囲の人間に与える影響というものは確実に存在するということだ。自分の内面的な苦しみを緩和するために臭いものに蓋をしたところで、臭いものは依然としてそこに残っているのである。事実を見るとはこういうことである。考えるのも苦しいことだが、自分が対人不安を抱き対人関係を積極的に築こうとしないのは、それが自分の社交性を強化しなければならない理由には必ずしもならないが、対人不安による社交回避と機会の損失によって今後の人生に何かしらの(おそらく自分を不利にする)影響を与えることになるだろう。

自分の今ある理想は、こうした視点を持ちながら、そのまま萎縮するのではなく、自分の意志と決断によって自分の人生を切り開くことである。無数の可能性に対して呆然とするのではなく、何かしらの方針を持って行動することを考える必要がある。そのとき自分の標となるいくつかのものの助けを借りても良いだろう。価値や解釈とはそのように利用できるということを忘れてはならない。