人生

やっていきましょう

696日目

自省する機会がほとんどなくなってしまった。それらの問題に対して問題とは思わなくなり、ただ1日の中で覚える諸々の感想を抱くだけで1日が終わる。ある意味自明の感覚を身につけたというべきだろうか。

意味や価値というものを対象として認識しなければその存在を確かなものであると思えなかった数年前とは異なり、今はそれらが対象ではなく自分の感覚の一部として、自覚されないほどに当たり前のものになっている。

これは自らを殺し続け外部の要請に応え続けようとした他者中心、集団中心の強迫的な考え方から離れ、自分都合中心の生き方を徹底した結果だろう。とにかく自分を優先するためならば他者の都合、価値観、考え方は二の次にするということを認めてからというもの、自分の抱えるストレスは半減した。

おそらく自分は誰から要請されたわけでもなく、勝手に全体主義的な発想に陥っていたのだろう。滅私奉公、社会貢献、ストイック、one for allを望まずとも自分に強いていた裏には、そうすることで全く価値のない自分が社会に存在しても良い口実が得られると本気で思い込んでいたからだ。

しかし実際は、仮に何かを成し遂げたとしてもそれがすなわち自分が社会に存在していいという理由には繋がらないのである。そのように肯定する他者は存在せず、何かの狂気的な動機に突き動かされて何かを成し得たという結果しかそこにはない。自分が本当に望んで取り組んでいたわけでもないので、僅かな成果に対しても離人感がある。

自分はおそらくコミュニティが構成員の自尊心を与えてくれるという古い考え方に囚われている。そのような仕組みで回っているかつての形態の中では、現行の宗教が与えているものに近い過程によって、自尊心が外部から与えられることが保障されていたことだろう。

だが今は自らを自らが選択し肯定しなければならないという時代である。これは自分のことが心底嫌いで劣等感しかない人間には苦痛である。自分は自由という価値観を尊重しており、何者かが自分を規定する時代には戻りたいとは思わないし、仮に何者かが自分に束縛的な自尊心を与えたとしてもつまらない茶番だとしか思えないだろう(だからこそ自分は承認欲求のために相手の求める人間像になろうと"積極的"にはなれないのだ)が、自由というものが、自分というものを強く要請することには生きづらさを感じる。そしてそれは自分というものが欠落した人間にとっては何よりも理想的であり、同時に得難く悔しいものである。

結局自分が自分である自由を求めていながら自分を持たない人間は、自分を持つための努力を行う他にない。そしてその成果は着実に経験として積まれている。自分探しというものもまた、他者が与える自尊同様茶番じみているが、少なくとも自分は他人の都合に従って自分を歪めるよりも自分自身を選択できた方が良いと考える。

おそらく自分は自分自身に対して絶対的な信仰を持つことはできないだろう。自分自身に対して何の疑いも持たない人間とはどうしても分かり合えないと思う(醜いとさえ思う)。しかし彼らがそうであるゆえに、自分を持つこと、自由という価値観を持つことの効力を認めることができる。他人に配慮し自らを制御することもまた重要だが、今の自分には自らを肯定し、自らが選択できるようになることが必要だと思う。