人生

やっていきましょう

706日目

自分はどう転んでも自分でしかないのだということを考えるようになった。自分の能力的な欠損、それに伴う劣等感、何を好み何を嫌悪するかということ、それらすべてが、どれだけ目を背け否定しようとしても、自分という人間の特性であることを示している。

自分の人生の大半は不安と自己嫌悪の中にあり、自分は自分であってはならない(それが不可能であるならば他者への影響を最小限に留めなければならない)のだという信念に支配されていた。だがそれは、結局のところ自分という人間を直視しないということでもあった。自分が何者であるかを見ようとせず、無理をして誰かに合わせようとしているうちに日和見な人間になり、自分の意見を持てない人間へとなり下がった。本当は何が嫌いで何が好ましいか、どのようなの意見を持っているかが分かっているにもかかわらず、自分はその特性を否定し、そうではないと思い込もうとしていた。だがそう思えば思うほど、自分はますます自分ではなくなり、自らの同一性を保てなくなる。

だから自分をまっすぐ見る必要がある。自分は何らかの関心を持っている。何らかの意見を持っている。何らかの欠損を抱えている。

 

自己受容の問題は、ある人にとってはそこまで難しい課題ではないのかもしれない。自分が出会ってきた人間の中には、自分という人間の正しさを全く疑ったことがないような人間も大勢いた。だが自分にとっては、自分を受け入れるということが何よりも困難である。なぜなら、これまでの人生の中で自分を否定し続けてきたということが、まさしく自分という人間であることを示しているからだ。自分を肯定するということは、かつては本来的なものであったかもしれないが、今の自分にとっては非本来的なものである。だから自分は何人かの知人たちがそうしているように、自らの関心を標榜し、なりふり構わずひけらかすことにある種の気味の悪さを感じる。

これは自分の関心に対して誰もが負い目を感じるべきだということではない。長い間自己否定を続けてきた結果、自分がそのように感じているというだけである。自分が自分であるために自分を否定しなければならないという矛盾を抱えた、ひとりの人間の見方であるにすぎない。だがそれが自分の問題であることには変わりない。

自らの自己否定の信念は「あなたにはこんな素晴らしい価値がある」と諭されることで回復できるようなものではない。自分がもしそのように言われて自分の価値を確信できるような人間であるならば、自分はここまで自分が失われることへの危機感と戦い続けることはなかっただろう。他人に言われたからではなく、自分が納得しなければならないのだ。そのために自分は自らの手で自らが肯定できる理由を探さなければならない。

自分はなぜ自分を肯定するに足り得るのか。この命題に自分は未だ答えが出せていない。それが単に反応として起こるものであり、かつそれを否定する理由もないからだと言ってしまえばそれまでだが、自分が求めているのはむしろ戦争の開戦事由のような、存在することへのもっともらしい正当性である。

自分は数年前、自分を肯定する理由や否定する理由はどこにも存在しない、ゆえに自分には価値などなく、肯定も否定も単なる選択のひとつにすぎないということを認めるに至った。だがこのことは自分を肯定しなくても良い理由にはならない。自分が生きている以上、自分という人間を肯定することが最も適応的な振舞いであり、それを否定するということは生存そのものへの否定となる。