人生

やっていきましょう

708日目

自分がプレーしているオンラインゲームで、アップデートを境に一定期間ログインしていないアカウントのキャラクターが一斉に削除された。それに伴い十数年間日の目を見ることなく埋蔵されていた名前がすべて開放され、キャラクター名を巡る命名権の争奪戦が始まった。

オンラインゲームにおいてキャラクター名というのは極めて重要な要素のひとつである。名前ひとつで第一印象のすべてが決まるといっても過言ではない。そのため自分という人間を相手にどう見せたいかを考え、名前をつける必要がある。

しかし大抵の場合、既存の固有名からの引用、あるいはそれ自体を採用することになる。それは名前というものが単なる記号の羅列ではなく、そこに込められた意味を持って価値づけられるからである。とくに無名の人間にとっては周知され既に価値づけられている名前を得るというのは、自らの名に権威を与える恰好の機会を得るに等しく、命名の可能性が開けている状況では誰もが中学2年生となってこぞってかっこいい名前を奪い合うのである。

この固有名を我が物にせんとする耐えがたい欲望は、通常オンラインゲームのサービス開始時点で顕著になる。アニメや漫画のキャラクターの名前を独占することができれば、自分はまさにその名前と一体になることができ、自らのアイデンティティを獲得することになる。

しかし大抵の場合、プレイヤーが設定できる名前は限られている。ほとんどのオンラインゲームでは、ひとつの名前はひとつのキャラクターにしか与えられない。誰かがAという名前を使えば、他の人間はAという名前を使うことができなくなる。そのような制限があるものだから、権威の欲望に駆られた多くのプレイヤーが競って固有の名前を食い荒らし、十数年も経てばほとんどの名前は使われているという状態になる。

だが今回、その食い尽された名前が一斉に開放された。数年間ログインの無かったアカウントのキャラクターは無差別に削除されることになり、有名に至る道が再び開かれた。

初めのうちは自分が簡単に独占できると思っていた。キャラクターが削除されるという情報はそれほど大々的に公表されたものではなく、また削除されるということがすなわち命名権の争奪を意味するとも書かれていなかったからだ。

しかしこの争奪戦には思った以上の参加者がいた。キャラクターが削除され欲しい名前が取り放題になる、という情報が口コミで広まったようで、Twitterではどの名前を取ったかという話題をよく見かけるようになった。

とりわけ皆が目指したものは、一文字の名前だった。ひらがな(カタカナ)一文字、漢字一文字の名前はこれまで多くの人間が求め断念せざるを得なかったものであり、誰もがその獲得を目指しキャラクター作成画面に張り付いた(例えばひらがなの「あ」は非常に価値のあるものだった。聞いた話によるとその名前を買うために5000円は払うという人もいたようだ)。

だが一文字にこだわる必要は全くない。それこそ解放された名前は無数に存在するからだ。適当に名前を打ち込めば何かしらの名前が手に入る。そういう入れ食い状態にあり、選択肢は無数にある。

ただし名前の命名権は一斉に開放されるわけではなかった。理由は分からないが、名前を入力しようとすると、しばらくの間「その名前は使用できません」と表示される。それがいつ開放されるのかは分からないが、開放された名前が奪われると「その名前は既に使用されています」という表示に変わる。そこで初めて奪われたことを知るのである。だから本当に欲しい名前があったら定期的に名前を入力して、誰かに奪われる前に名前を勝ち取る必要がある。

単純にキャラクター作成画面に張り付いていれば良いというとそうでもない。長時間作成画面に留まっていると自動的にゲームが終了する仕様になっている(bot対策だろうか)。だから定期的に何らかのキャラクターでログインし、再び選択画面に戻るということを繰り返さなければならない。

これが非常に面倒な作業である。キャラクター作成画面では毎回2次パスワードの入力に加えてbot判別のためのひらがな入力を行わなければならない。加えて自動終了まであるから機を見て戻る必要がある。だから自分はそこまで頻繁には確認せず、せいぜい1時間ごとに確認するようにしている。

まさか1時間おきに確認していれば奪われないだろうと思っていたらそうでもなかった。自分が狙っていたいくつかの名前はその1時間の間に何度も奪われてしまっていた。つまり自分以上に、いつ開放されるか分からない名前を頻繁に確認している人間がいるということである。

彼らの勢いは止まることを知らず、ここ数日のうちにめぼしい名前は悉く奪われていった。だがそれでも名前の金脈が枯渇する様子は未だない。ひらがな一文字でさえまだいくつか残っており、漢字一文字は十数年分の可能性が残されている。2字以上の固有名詞についてはいうまでもない。また盲点になりがちだが、英語名にもまだフロンティアが残されている。

だがここまで名前が手軽に手に入ると、名前の価値というのも相対的に下がってくる。例えば自分はイギリスという名前を手に入れたが、それが何だというのか。自分はイギリス人でもなければイギリスに忠誠を誓っているわけでもない。単にイギリスという名前が取れたから取ったというだけにすぎない。

そう考えると無闇に名前を取るというのも虚しいものである。名前が固有であると言う理由だけで名前を漁っていると、ブランド物を買い漁る人間のように、数多の固有の名前の下に自分が埋もれることになる。半ば自虐だが、そのような記号コレクターは名を自己主張の材料とするのではなく、名を自らの支配下に置くことに価値を見いだす。だがそのような行為は、逆説的に自らが記号に支配されることを意味するばかりでなく、本来名前に宿っている価値を毀損することになりはしないだろうか。

以前似たような争奪戦が起きたときに記録に残した記憶があるが、無闇やたらに獲得した名前は結局その場限りの満足に終わってしまう。これから先も自分がそれと向き合うつもりなら、名前というのはそこに自分が感じられるものでなければならないように思う。だから自分は自分が納得できる名前だけを狙うべきであり、それ以外のものはあまり身を入れて漁る意味がない気がする。