人生

やっていきましょう

714日目

自分が記録しているものの大半は何らかの専門的な知見やその引用から導かれたものではなく、ある一個人の主観を通じた偏見であるということを忘れかける。この認識が欠けていると自分が記録したことのすべてがさも正しいかのように感じてしまうが、実際のところ自分の記録というのは自分の認識の限界を記すばかりであり、必ずしもそれが正しいものであるとは言えない。

自分が恐れているのは、自分の記録したことが自分にとっての不変の真理になってしまうことだ。何度も言及していることだが、自分が記録したことのすべてはある一個人の無知に由来する自分勝手な感想でしかない。それはどういうことかというと、自分の感情的な信念を吐露することがすなわち自己正当化につながるので、自分がこう思うと考えたことが、そのまま自分の意見として支持するに値すると盲目的に信じてしまうということだ。それは単に自分の信念を告白しただけであり、必ずしもその信念の正当性が単に宣言したことによって保証されるわけではないのだが、自分はそのことをうまく認識することができていない。だからこそ自分は常に自身に批判的な目を向け続ける必要がある。

そのように自己を批判する自己というのは、予め用意されているわけでも、自然に調整されてくるわけでもない。自分がそのように意識し注意を向けないことには決して維持されないのである。他人は決して自分がそのようにすることを強制はしないし、推奨すらしない。他人が他人の信念に介入を試みることが極めてリスキーであると考えられている昨今の状況では、人の信念は孤立し自身に歯止めを効かせるものがいなくなる(その結果過激化する者もいる)。したがっていかなる他者も自分に介入して自分が自分を律することを正当化することはない。このことを十分理解していないと自分は無意識のうちにどこかへ流され続け、道に迷い続けることになる。

人々が孤立した時代、あるいは情報が錯綜し1人の人間が処理しきれないほどに溢れる時代の中では、己の信念ひとつが自分を決定づける。自分がどれほど知性と判断力に乏しく、多くの知識を持たないからといっても、どうにか自分で舵取りをしていかなければならない。それは元より意志薄弱な自分にとって、途方もなく難しいことだろう。だが誰も自分の苦境を助けてくれないのであれば、自分で立ち上がるしかない。

だがそのことが安易な自己本意主義を導き出し、結果自分の信念の無謬性を疑わなくなるというのは間違っている。自分は正しい信念はただ信念によってのみ正当性を得るのではなく、事実確認や自己批判といったものの圧を受け、それでも生き残ったものに便宜上の正当性を与えるべきである。しかしこれも過剰化すると何も決断できない日和見になるか、何も信じられない懐疑論者になるか、自分を持たない冷笑屋に成り果てる。そうならないためにもほどほどの圧、ほどほどの信頼を自分に寄せる必要がある。

ところですべてが同じ程度にほどほどになってもまた問題がある。ほどほどというのは、ある場面では自分を信ずる方を優先し、ある場面では自己批判することを優先するということによって全体の安定を得ることを意味する。それも気まぐれによってではなく、適切に判断した結果そうなることが望ましい。