人生

やっていきましょう

735日目

自分がどれほど目を逸らしても、自分が文学寄りの人間であるということは否定できない。医学や理学でも、エンジニアリングやビジネスでもなく、まさしく自分が人文学を学んできたという経緯は無視できない。

広義な意味での文学は、人間の解釈の営みを言葉や文章を通じて把握しようとするというものだと考える。ここで重要なのは事実ではなく解釈であるということである。自分が思ったこと、感じたことを表現する。まさしくそれが文学の営みであり、それを手がかりに人間理解を深めようとするのが学問としての文学の意義である。

そのような出自を持つ自分としては、事実を分析し何かの評価を下すことや、有用な知識を収集したり何かの操作を行うこと以上に、解釈を表現することに意識が向きがちである。それは(人文学の人間がしばしばそうであるように)事実誤認や思い込みを強化することにもなりかねないが、ともかく文学出の人間というはとかく言葉というものに特別なこだわりを持っている。

この言葉へのこだわりこそ自分を形作っているものである。すべての人間は、自分が試行錯誤の末に精巧な歯車を生み出し改良し続けることに野心を燃やさないことと同様、必ずしも言葉というものにそれほどの執着を持っているわけではない。自分を価値づける手段に記録を選びその習慣を2年以上続け、たかだかゲームのひとつのセリフに何ヶ月も試行錯誤する自分は文学の人間である。

問題はその特性を自分が否定したがっているということだ。意味や価値といったものを中心に物事を捉えようとする見方に深く染まっていながら、そうした自身の傾向がただちに否定されるべきものとして扱われる。自分は言葉や解釈を通じてしか世界と関わることができていないのに、その繋がり方は妥当ではなく、論理性や実証性といった直感では見えない事実に基づかなければならないと考えている。そのために自分はただちに否定されなければならないという思いに支配されている。

自分の本来的な特性は、言葉を通じて世界と関わっているという点、特に事実ではなく「自分がどう感じたか」という物事の自由な解釈に由来するという点にあるということを理解しておかなければならない。認めたくないかもしれないが、まさしくそれが自分である。同時に、それを極限まで否定しようとした自分もまた自分である。実のない表現や解釈に価値づけを行うことの嫌悪、それゆえに固まった信念を持てず自分の感想をひとつも持てない、にもかかわらず解釈の暴走を食いとどめようとした自分、それもまた自分である。