人生

やっていきましょう

749日目

 Apexに野良で潜っていると重要な局面で他者との意思疎通が取れないことがある。その度に自分は他者にストレスを感じ、イライラが収まらなくなる。自分はこの苦痛を何度も経験したことにより、他人は自分の思うようには行かないのだと悟った。

以前知人とプレーしたときに意思疎通の面で意見が分かれたことを思い出した(以前記録に書いた気がするが記憶の整理のために再び書く)。VCを使わないピンのみのコミュニケーションで、どのように連携すべきかという問題について話し合った。自分は一人の人間がリーダーシップを取り、残りが追従するという形を取るべきだと主張した。しかし彼は単独のリーダーではなく全員が必要に応じてピンを指すべきだと主張した。

独裁制と民主制の違いみたいな話になるが、互いにメリット・デメリットがある。自分がリーダーを定め基本的にその人間に従うべきだと主張したのは、指示系統が画一化され、刻々と変化する状況の中でなすべきことがより明確になり、攻撃・乱入の判断、緊急時の撤退などを行う際に周りが連携を取りやすいためだ。

しかしこの形態が生きるのはリーダーが素早く的確な状況判断を行える場合のみである。指導者がチームプレーを無視した自分勝手な人間であったり判断力に欠けた無能であれば、かえって連携が取りづらくその隙を突かれてしまうだろう。また追従する側もただついていくだけでは面白くなく、ゲームの体験としては乏しくなるだろう。

一方、パーティがリーダーを定めず各々の状況で指示を出し、状況次第でついていくという場合にはどうなるか。まずは誰か一人が死んでも指示系統が死なないという利点がある。また一人一人が状況次第で考えるので、1人で警戒できる範囲よりも更に広く深く注意を向けることができる。

しかしこれらの形態は指示系統が分散しているため、緊急時の対処に弱い。自分が死にそうな時に目の前の敵にピンを指して応援を要請しているとき、別の人間は別の敵と戦っていてそれどころではないかもしれない。また自分が優位を確保するために先にリング内の安全地帯を確保したいと考えていたときに、味方はリング際の敵を狩りたいと思っているかもしれない。こうした意見の対立が生じたとき、大抵指示系統が曖昧になる。

この曖昧さが最も危険だと自分は考える。意見が対立して目的が共有されないとき、退くか攻めるかの判断を瞬時に行うことができない。自分はこうした状況に陥ったとき、速やかに自分の主張を取り下げて味方の意志に従うようにしている。仲間を無視して孤立すれば人数不利で負けるのだから当然である。だが味方は自分がリーダーシップを取っているというつもりがないので、指示を出したり出さなかったりする。だから自分はリーダー不在の状況で自分の指示が通らない状況だと全く仲間と連携を取ることができない。

こうした状況に対するひとつの答えが「他人に期待するな」というものである。自分が率先してリーダーシップを取る、従わなければ泳がせて的やおとりにする、自分の安全は常に自分で確保し、緊急時に味方が助けてくれるということを期待しない、死はすべて自己責任、連携があれば儲けもの、基本的にすべての判断を自分に委ねる、こうした態度を持つことで、他人がどれほど勝手なことをしても怒りを感じなくなるということだった。

これが最適解であるかどうかは分からないが、少なくとも自分はこの態度を学ぶべきだと思った。自分は自分が弱いために他人にカバーを期待し、その勝手な期待が裏切られることでストレスを溜めていた。しかし他人がそもそも助けてくれると考えなければ、期待はそもそも発生しないので裏切られることがなくなりストレスを感じない。負けた原因に対して「もしここで仲間がいてくれれば…」と思ってしまう誘惑に駆られるが、仲間に期待しなくとも、1on1で負けたのであれば射撃の精度を向上させ、複数人からフォーカスを合わせられていたのであれば、詰め方や危機管理、不意の付き方を練習する、といったように他者を介在させる必要なく自分自身の課題として捉えることができる。

これはApexに限った話ではない。自分の人生の失敗は大抵、他人が理解してくれる、自分に合わせてくれると「勝手に」期待して起こったものである。これだけ努力したのだから他人は分かってくれる、これだけ誠意を見せているのだから他人は自分を認めてくれると思って、自分の目的意識や判断、信念を放棄して他人に身を任せたことによる。その期待が実らなかったことによって多くの他者に対して憎悪を募らせてきたが、結局それは自分が勝手に期待していただけのことである。

重要なことだが、誰かのせいだと言うときの「せい」とは、自分がその人を問題の原因であると言うばかりでなく、更に自らの感情に基づく私的な価値評価を加えているということに注意すべきだろう。その価値評価とは相手を「悪」と断ずるものである。しかし原因は価値評価とは独立して存在し、また原因そのものも複数あることに意識を向けれていれば、それが単に自らの感情を正当化するためにひとつの原因を持ち上げているだけにすぎないということがわかる。問題の原因が他者にあるということも事実である。しかしそれは原因のひとつ、もしくはその一側面であって、他にも原因は存在する。

他者の非難は自分の感情的なストレスを解消するためには有効だろう。しかし問題の原因の解決を目指すという立場に立った時、他者を非難するということは(どれほど悔しいからといっても)何の解決にはならないのである。他人を責めたところで他人自身が問題意識を持っていなければ他人は変わることがない。他人を責めるということは不確実性に対する期待を裏切られたという点で自然現象を責めることと同じである。そうするよりも数ある原因のうちから自分が改善できる課題を見つけ修正を図るべきだ。そうしないことによる失敗は、やはり自分にも原因がある。