人生

やっていきましょう

766日目

他人の話をよく聞くと、そこまで理解が完全でなかったり根拠が明白でないことを平気で言っている場合があるということに気づいた。自分はこれまで他者がすべてにおいて自分以上に視野が広く物事を見渡せているという前提に立っていたが、実際はそうである場合もあればそうでない場合もあるということもある。

これはなかなか気づきにくい問題だと思った。自分は自らの無理解を認める人間に限りそうであると把握することができているが、実際すべての人間がそうであるわけではない。自分が何かについて分かっていないと認めたがらない者もいれば、そもそも分かっていないということすらわかっていない場合もある。例えばその人間は、自らの認める視野の中では自分はモノの道理を分かっていると思い込んでいるのだ。

これは当然自分自身にも言えることだ。物事を分かっているかどうかというのは、主観的な印象のみで断定してはならない。なぜならそこにはしばしば自分がそうであってほしいという願望が投影されているからだ。自分も時としてそういうことに気づけないことがある。この確認を怠ると自分の考えが暴走する。

 

自分は印象で他人を決めてしまう人間だ。そして大抵、他者を脅威と感じるあまり他者が万能であるかのように錯覚しがちである。しかしそれは正しい判断であるとは言えない。自分が見るべきなのはその人間の印象ではなく、実際に何を考えているかということである。その考えが妥当であるかどうかはその場で判断がつかないこともある。しかし予測をすることはできる。

言い方は悪いが、自分は他者の言動を品定めする必要がある。万人が自分より優れ、自分が最低の人間であれば話は単純だろう。だが実際はそうではない。他人が理解を欠いていて、自分がその欠点に気付くこともある。こうしたとき、例えば他人が脅威だからその欠点に気付いた自分が間違っているかもしれないと思う必要はない。判断が自身の一定の吟味によって裏付けられた根拠のあるものである限り、修正の余地は残すとはいえ自分はその判断に自信を持つべきである。

何度も繰り返して言うが、事実に基づいて判断するというのは、自分に不利な事実ばかりをピックアップして自尊心を貶めることではない。可能な限り事実に基づいて判断しようと努めた結果、自分の判断に分がある場合もあるということを受け入れるということである。そのとき自分が、他者の調子に乗せられて自分が間違っているかもしれないと思わされてはならない。当然間違っている可能性というのは否定できないが、そのために自分の用意した根拠がただちに否定されるというのはおかしい。

自分は自らの言動にある程度の根拠を持たせなければならない。それは根拠のある判断を行うということでもあるが、同時に無根拠の懐疑を行うべきではないということでもある。自分が何であれ他者と意見が対立したら自らの主張を反射的に疑い始めるというのは間違っている。根拠がないのであれば当然疑うべきだが、十分な根拠があるなら意見を退ける必要はない。