人生

やっていきましょう

782日目

学生時代、自分がどのようにそこに在れば良いのか分からなかったことがある。場に対して自分という存在が異質であるという自覚があり、どうすれば自分がその場に在ることができるのか分からなかった。

自分はかつて正しい歩き方が分からなかった。自分の歩く姿が衆目に晒されているとき、決まって自分の動きがぎこちなくなっているのを感じた。どうすれば正しくそこに在ることができるのか、当時は真剣に悩んでいたのを思い出す。

自分がそこに在ることが異質であると感じるのは内向的な人間にとってはよくあることであるらしい。それは彼らが、場の参加者の内側に共有されている暗黙の約束事を共有していないからだ。話の持って行き方、相手の信頼を確かめ合うような声の抑揚、ノンバーバルな振る舞い、話題のチョイスなど、それらがうまく統合されて醸し出す「風土」を自明のものとして受け入れた者が場の参加者であり、そこに在ることが正しいとされる者である。したがってその風土を自然に受け入れられなかった者(あるいはそれを拒んだ者)は異質である。

自分は気がついたら異質な人間の一人になっていた。自分自身であろうとすることが場にとって異質なものであるという矛盾に悩まされた。自分には次のような考えがあった。すべての人間が個人であり、各々の内に異なる考えを有しているのであれば、どうしてかくも多くの人間が分散せずにいとも容易く場に迎合することができるのか。またなぜ自分にはそれができないのか。

この答えは学生時代には分からなかったが、今は少し分かる気がする。要するに自分は共同体内で自明に共有されている文化を、その当事者として受け入れる態度がなんらかの理由で阻害されており、代わりにそれらをひとまとまりの情報として頭で理解しようとしていたのだ。一方で多くの場の参加者は、こうした文化を頭で理解しようとするのではなく、場に影響され自然な模倣を行うことによって受け入れるようである。模倣の対象や、その文化を享受することの自分に対する影響についてあまり考える必要はなく、風土に迎合するだけならただ影響を受けて感化されるだけで良い。自分はそれらを論理的な繋がりをもって把握しようとしていたから困難に感じていたのであるが、彼らはただ感化されているからこそ簡単に迎合できる。

この迎合を恐れ、自分を共同体の自明性から引き剥がすものの正体は何か。根深い人間不信が影響していることは確かだ。あるいは自分が繊細で自己を形成しにくいという生来の特質に対する過剰な警戒心から来ているのかもしれない。いくつか理由もあるだろうが、自分が注目しているのは自らの批判的な思考についてである。

もし自分が自分の感性に対して莫大な自信を持っていたら、自分を感化した文化に対して絶大な影響を受けていたことだろう。彼がもし自分に影響を与えた文化に対して、あるいはそれに自分が感化されたという事実に対して、批判的な分析を始めたり認識の修正を図ろうとしたらどうなるか。その文化に対する直接的な好意は薄れ、自分から切り離された情報だけがそこに残るだろう。それはどこか遠いもので、自分の近くにあるが触れないものだ。

自分が批判的思考を何ごとにも当てはめるようになった結果、何かを自分の関心ごととして味わうことが出来なくなってしまった。すべてが切り離され、自分がますます何であるか分からなくなってしまう。そうならないためには、やはり自分が良いと感じたものは素直に受け止め、その感情を大事にする必要があるかもしれない。自己批判が高じて一周まわった気分である。