人生

やっていきましょう

789日目

自分のやりたいことを自分の頭で考え行動できる人間を羨ましく思う。自分にはそれがあまりできていない。

大学にいた頃、同期が当たり前のように主体性を身につけていたことに戸惑っていたことを思い出す。彼らは当たり前のようにやりたいことがあり、その実現に向けて当たり前のように思考を巡らせ実現に繋げていた。

自分の理解が及ばなかったのを覚えている。自分の世界観では自分のやりたいことを実現するという発想がそもそもなかった。やりたいことは我慢することが基本であり、やりたくないことをやることが自分に課せられた宿命だと思っていたからだ。しかしそうでなく、自らが望むところによって生きている人間が世の中には大勢いるのだ。自分はそれが悔しかった。

自主性というものをどうにか身につけられないかと考えている。特に自分が危惧しているのは、知らない知識を自ら獲得しに行くという意志が欠如していることによって、外部から自然に与えられる受け身の情報だけが知識の収入源になってしまうことだ。この状態に陥ると、何か問題が生じた時「そんなことは誰も教えてくれなかった」と自分に必要な情報が外部から流れて来なかったことを嘆くことになるが、結局それは情報に対して受け身であり続けた自分の責任でもあるのだ。

apexでもよく感じることだが、受け身であるということは他人に情報源や意思決定を任せるということである。受け身の対象、つまり現在身を置いている環境や情報を与えてくれる人物がより優れたものであるならばそれはある意味有効なものであるかもしれないが、必ずしもそうであるとは限らないのである。自分より視野の狭い人間、鈍い人間、不安定な人間も当然いる。彼らに自分の判断を委ねるということは、自分の視野を彼らと部分的に同期させることに他ならず、それが自明のものとなると限定的で偏った情報を与えられていることに気づかないまま、それらの情報のみを頼りに必死に考えを巡らせることになる。

誰も教えてくれなかったことが悪いのではなく、教えてもらうことに頼っていたこと、自らの意志で知ろうとしなかったことが罪なのである。今ではかつて以上に何かの情報を調べるということが容易になっている。従って何かを知ろうと思えば、大抵のことはその意志があれば簡単に知ることができる。

厳密に言えばどちらが悪いという話でなく、流動的で不安定な情報源よりも明確な目的に従って主体的に設定し選別した情報源を蓄積していった方が有効であるということなのだが、しかしこれは周りの状況よりも自分の意思決定が妥当であると冷静に判断できる場合に限るということに注意すべきだろう。これを全般的に拡張して当てはめると単なる傲慢になり、その偏った自信が災いして結局のところ自らを偏った思想に陥れることになる(容易に情報源を選択できるという環境が災いして、信念を強化する情報が自分の周りに集まりやすい傾向にある)。

とはいえこうした傲慢さを警戒し過ぎた結果が自主性の欠如に繋がっていることは事実だ。行動的な人間は少し傲慢なくらいが良いのかもしれない。自分が考えや価値観が好きでなければ、それに基づいて何か行動に起こすということなどできないだろう。自分は他の判断を押し除けてでも自分の意思を優先させるということを学ぶべきだ。