人生

やっていきましょう

795日目

創作の中には様々な知識を披露して場を繋ぐいわゆる蘊蓄と呼ばれる手法が取られているものがある。こうした表現技法は作品の背景に奥行を持たせ、また展開のメリハリをつける上で非常に有用な方法であるように思う。

自分の創作はこの蘊蓄を行うことができていない。それは自分がそうしたものの表現方法を知らないからではなく、蘊蓄を披露できるほどの知識を持ち合わせていないからだ。知識の裏付けをもたない雑な演出ばかりをするので、自分の創作にはどこか浅いものを感じてしまう。

いったいなぜ自分は蘊蓄を演出することができないのか。蘊蓄など、ある程度のものであれば少しの努力で誰でも集められる(大学のレポートのように、参考文献を徹底することさえ理解していればそれほど難しいことではない)。問題は自分の中に知識を知りたい/表現したいという思いが欠落しているということだ。

ある種の人間は、その分野に関する情報をこと細かに知りたいという思いに突き動かされる。自分にはそうした思いがない。厳密にいえばかつては存在した。以前の自分は歴史に対して強い関心を持っていた。しかし今ではそうした思いは失われた。歴史に限らず、何かを知りたいという思いが消滅した。

おそらく自分は知的好奇心よりも自己否定感が強すぎた。その結果、自分が関心を持つことそれ自体に無力感を覚え、何も関心が持てなくなってしまった。今の自分はただ空虚さのみがあるばかりで、何のために生きているか分からない。

こうした性格は創作にも表れている。自分の関心や素朴な感情を否定尽そうとして、ギャグや冷笑という形を取って表れている。うまく取り繕おうとしているが、その内側はまさしく焼け野原のように何もない。信念もなければ感情もない、そんな印象を思わせる。

よくよく見てみると、この人は本当に何も興味がないのだということが分かる。小手先の演出では隠し通せないほどの、内側に宿る空虚さを自分は認めている。

自分はもう創作に関わるべきではないのかもしれないと思っているが、この作品はひとつのケジメとして完成させなければならないと思っている。自分の気力がまだ残っているうちに完成させる必要がある。