人生

やっていきましょう

805日目

失敗は結果であると同時に過程である。自分がどれだけ失敗しても、それは単に失敗という結果を積み重ねただけのことである。そこで何かを学び修正し、チャレンジを続けることができれば、少なくとも何かを達成することはできるだろう。

挫折した人間に対して投げかけられる言葉というものは決まってこうした類のものであり、これらのきれいごとを目にした自分は口だけなら何とでも言えると悪く思っていたが、最近は確かに一分の理はあるだろうと思うようになった。

自分の経験から言って、精神的な挫折に陥った人間は自分の失敗経験を絶対的なものにしがちであるように思う。過去の失敗が変わらぬ状態のまま自分の内面を支配しているので、次もまた失敗すると思うようになったり、何をやっても無駄だと感じるようになる。

実際、今の自分はこうした精神状態にある。それを何とか否定しようとしてきた先の2年間も虚しく、今では何も欲しない、何も挑戦しないことが自分にとってのベストであると思うようになってしまった。

しかし失敗というものを絶対的なものにしているのは自分である。それが分かるのは、同種の失敗に対して悲観的な人間がいる一方で楽観的な人間がいるという事実だ。そうした人間を自分は何度か見てきた。彼らは失敗しても何とかなると思っている。つまり失敗に対する自分の捉え方によって、失敗は不変的で絶対的な烙印にも、些細なミスにも、試行錯誤と修正の機会にもなり得るのである。

そうした前提を自分は今持っている。幸か不幸か、挫折によって自分の中の価値観が一切なくなったことによってそうした可能性について気付くことができた。それまで自分は自分という人間があまりに脆いので、自分の曖昧で崩れやすい価値観にすがるような思いで生きてきた。そうした中で自分の中の偏見を正当化しなければならなかったことに、必死な思いもあれば、後悔や戸惑いもあった。しかしそれらがすべて崩れ去り、すべてがどうでもよくなった。自分はいま生きている必要がまったくないが、自分の価値観を生かす必要もなく、失敗に何も悔やむ必要もないと思うようになった。他人に対して過剰な恐れを抱く必要もなくなった。なぜならその結果自分が嫌われようにも、自分は既に死んでいるのだ(いわゆる犯罪者の思考の初期兆候にも思えるが、自分が社会関係に対する解釈だけでなく機能についても正常に考えていることが一定の抑止力となっているように思う)。

このようにして自分の中のバイアスが弱められたが、いまの自分はこの状態をどう捉えるのか。このまま虚無感を抱くことに耐え切れず死ぬだろうか。あるいはそのまま何の希望も抱かずに生きていくだろうか。自分は率直に言えば死ぬことにすら価値を見出せなくなったので、積極的に死ぬことはもはや無い。しかしかといって積極的に生きる意欲も自分の中にはない。

このまま流されて生きていくというのが妥当な予想だろう。しかし今の自分は、試行錯誤という今まで取り組んだことの無い方面の努力に僅かな可能性を見ている。

これは自分に残された数少ない価値観のひとつだろう。自分は生きている価値がないが、自分が動ける限りは何かに対して何度でも挑戦でき、その度に失敗というフィードバックが得られるということにどこか軽妙でコミカルな感じを覚える。それもいいかもしれないとどこかで思っている。