人生

やっていきましょう

807日目

以前自分は常に全方位に対して合理的であろうとするよりも、自明なものに対して適応的であろうとする方が生存しやすいという話をした記憶がある。

合理的に生きるということは、自分の考えや発言に対して常に根拠を求めようとするものであり、またそれらに対して可能な限り齟齬や矛盾を含まないようにするということ、自分が仮にも誤解や盲信と行った非合理的な信念に陥っていると自覚できた場合には、それらの非を直ちに認め修正を図る責任があるということである。

自分はそのように生きることはとても難しいことだと感じている。なぜならそこには論理というか細い命綱を除いて自明性というものが存在しないからだ。修正とはある種の問題点を改善するために、それまでの自分の判断や価値観を否定し続ける行為である。端的に言えば自己否定なくして、合理的であることはあり得ない。

しかし必ずしも生きるということは合理的であるという道ばかりではない。合理的であろうとすることにそれほど神経質になっていない人は数多くいる。それどころか、自分の発言が非合理的なものであるという自覚を持っていない人達もいる。しかし彼らは卑屈になるどころか、その信念があたかも当然なものであるかのように振る舞い、そのことを自覚できずにいながら堂々と生きていることが多い。皮肉なことに、彼らの方が世渡りは上手いのだ。

ここで自分が学ぶべきことは、自明であることの力強さである。合理的な人間になろうとしてかえって自尊心を崩し劣等感を抱え卑屈な人間になってしまった自分とは裏腹に、自らの内に宿る「普通はこうだろう」という信念の世界に生き、その賛同者と共に自明であることの空気を醸成し、その中で結束し自明性を高め合う人間はそう簡単に折れることはない。

彼らは自身が信仰を抱いていることにしばしば無自覚なことがあるが、しかしそうでありながら空気に反応することにかけては優れているので、それがどれだけ頓珍漢なことであっても空気によって守られている限りはその対象がなんであれ、またその対象が時流によって変わっていったとしても、彼らは同じように自明であることを信じ続けるだろう。

それに比べれば理屈とは何と弱々しいのか。懐疑と自己否定を貫き、人々の信念から独立した理屈を見いだすに至ったところで、それを自明と思えないのであれば、結局は理屈など更なる理屈の検討と自己否定のための材料であるにすぎない。

自分は合理的であろうとすることと同時に、自分の中に自明性を受け入れる余裕を持たせる必要がある。自分は小さい頃自分の中の自明性が周りとは違うことで相当悩んできた。そのために他者の押し付ける自明の圧力を脅威と捉えてきた。そのように自分が恐れてきたからこそ、自分は自他の価値観の相違というものに神経質になっていた。

だが彼らが当たり前のものとしている価値観に必ずしも従うことはない。また警戒し否定する必要もない。多様な価値観の混濁をありのままに見つめ、好ましいものを近くに置いておけば良い。そしてその好ましいものに自分が力を与える。そうすれば、いずれそれは自分にとって自明なものになるに違いない。