人生

やっていきましょう

825日目

失敗は当然に起こるものだという認識が未だに弱いと感じる。思うような成果を出せなかった時、自分はその失敗に感情を振り回されたり、他責をしたり、次の挑戦に対して恐怖を抱くようになるが、それらすべては自分の失敗を直視できないために起こっている。

失敗を直視するということは自尊心をどこまでも削る行為だ。努力し続けることは際限のない自己否定だと誰かが言っていたが、それは今の自分を肯定する以上に今の自分を修正しようとするからである。

しかし失敗を真に直視するならば、その失敗は自尊心とは独立していると分かるはずであり、またそもそも失敗とは常に起こりうる平時の出来事であることが分かる。

自分が失敗に振り回されているとき、自分は無意識のうちに失敗を自己否定と結びつけている。しかし必ずしも失敗は自己否定とは結びつかない。失敗とは単に自らが設定した目標に適わない結果が出てしまったというだけである。それをどう解釈するかは本人次第だ。

また失敗は稀に起きた不運であると勘違いしてはならない。失敗は常に起こる。自分の経験が立証している。上手くいったことは滅多にない。成功に恵まれない。必ずどこかで壁にぶつかる。しかしそれが当たり前なのである。

従って次のことが言える。まず自分の力量を超えた問題に対しては失敗は当然起こりうるものだと考える必要がある。だが一方で、失敗が自尊心を傷つけるためにのみ存在している訳ではないということを自覚しなければならない。誰が何と言おうと自分は修正の機会を得るために何度も失敗して良いのである。少なくとも自分はそう思わなければならない。

ところで自分が失敗を恐れる理由は失敗を責め立てる他者が存在することである。失敗して相手の感情を激昂させるという強い思い込みが軽いパニックを引き起こし自分に失敗を回避させる。しかしそれさえなければ、自分は失敗など恐れていないということがよくわかる。むしろ本性からすれば自分は何度も挑戦することを進んで望む性格であるということを自覚している。

ここまで他者に責め立てられることを恐れる理由は分からないが、この問題を対処するためにはまずその他者を相対化する必要がある。つまりそういう人間が存在し得ることをまず認め、しかし自分はその他者の感情までに従う必要は無いということを自覚しなければならない。

責め立てる人間というのは、自分がapexで初心者に対して感じるような感情に近いものを抱えており、普通に考えたらそんな失敗はしないだろうという失敗をしたことで、自分にも被害が回ってきたことに対する不当感が爆発しているのだと考えられる。

この点については同情でき、そのために失敗は予防されるべきだと考えるのは重要だと思うが、やはりどれほどの理由があれ感情をぶつけるというのは間違っている。感情を爆発させて問題が改善されるなら大いに爆発させるべきだが、実際にはキレた本人が一時的にスカッとするだけで、問題は相変わらず残り、爆発を受けた本人は萎縮して自分と同じように目的の達成以上に失敗を回避するようになる。

しかしそう思っているのは自分だけであり、本人にそのことが自覚できているとは限らない。怒りを爆発させる人間もまた、自分が周囲に与えている影響を自覚できていないという点で失敗しているのである。従ってそれもまた当然起こりうるものであって、仕方のないものだと受け入れる必要がある。

怒る人間の感情に自分を合わせる必要はない。自分がした失敗という点にのみ注目すべきであり、失敗にあれこれ言う人間の感情にまで配慮する必要はない。自分は失敗に対して超然とした態度を取るべきであり、何を改善できるかだけを考える必要がある。他人の感情は改善できない問題だから無視すべきである。

ただひとつ無視してはならない問題がある。それは世の中が自分の都合で動いているわけではないということだ。自分が何度でも失敗を受け入れようと思っていても、実際には失敗が許されない状況というものも確かに存在する。

その時自分はどうするべきか。漠然とした不安を理由に萎縮してはならない。一度冷静になり、自分の力量と問題を照らし合わせる。自分の中でなすべきことが分かり実現性の高い課題であれば果敢に挑戦する。不確実性が高く自分の力量では対処できない問題であれば退く。退くことができない状況であれば、失敗は起こりうるものだとして、どうにか自分にできることだけに全力を尽くす。

いかなる状況でさえ、問題に対処する自分を外部に支配させないということが重要である。他者に萎縮しそうになったらこのことを思い出す必要がある。