人生

やっていきましょう

840日目

マインクラフトのマルチサーバーを経験するのはこれが2度目になる。今回は国土地理院のデータをもとに日本全土が再現されたマップで、自由に建築し領土を広げられるというものだった。早速中の様子を探ったが、人はあまりおらず日本人しかいないので以前のサーバーと比べてプレーしやすいと考えた。しかしそれは安易な考えだった。

開始早々重装備を抱えた2人のプレイヤーが自分の方に急接近しているのがマップで確認できた。挨拶でもしようかと呑気に構えていたところ、いきなり自分を切りかかって持ち物を全て奪い去って行った。グローバルチャットに殺人のログが流れPKが行われたことが周知されたが、PK自体ルール違反ではないがヘイトを買いやすくなる、という周囲の警告だけで終わった。

めげずに建築を行っていたら、続けて武装したユーザーが自分に急接近してくるのが分かった。今度こそはと思い歓迎しようとしたら、今度もまた自分を攻撃し持ち物を奪い去った。このユーザーは初心者狩りとして有名な人間だと後に知ることになるが、当時は不条理極まりない思いをした。

だが自分は彼らに対する怒り以上に、この状況に対する興味を抱いた。そもそも自分はなぜ狙われることになったのか。それは自分がPVPエリアで細々と建築を行っていたからである。ではなぜ他のユーザーは狙われないのか。それは街や国家というエリアを構築または所属し、安全圏を確保できているからだ。あるいはその街や国家と戦争しようにも、個人相手ではかなわないほどの防衛力を保持できているからだ、ということもできる。

自分はどこにも所属していない。自分一人で、しかもまったく武装をしていない状態で富士樹海の付近を徘徊していた。スポーン地点が置かれた東京からも近い。狩られないと考える方がおかしい。

ふとこんなことを考えた。自分が相手に期待する善意や良心というものは、それを守ることがメリットになるような環境でない限り機能しないのだ。あるいはそれらが肯定されるまでもなく、殺人という行動を抑止するほどの罰とそれを与える拘束力がなければ、殺人は容易に起こるのだ。

今自分がいる場はいくつかのサーバー内のルールを前提とした、仮想の荒野である。野生に置かれたとき自分はどうなるのか。「自分の身は自分で守る」という聞きなれた言葉が、今まで以上にリアルに感じられた。

何も持たない人間はこの無慈悲の荒野に対してどう振舞うことができるか。ひとつは自分の街をつくるということだ。このゲームは自分の街さえ作ってしまえば、戦争でも起こらない限り領域内でのPvPが禁止される(予めその設定をoffにする必要がある。反対にonにすることもできる)。ただし街の建造にはいくつかの料金がかかり、その料金を稼ぐためにはどこかしらで金を貯えなくてはならない。

もしくは別の誰かの国や街に所属するということだ。ほとんどの人間はまずこちらを選択する。所属した先にはゲームについて詳しい情報通がいて、まず何をすればいいのか、どうすれば金が稼げるか、などということを教えてくれる。その地を基盤として独立の足掛かりにする、もしくは街の一員として領土拡大と建築と労働に励むというのが、このゲームでの定石になっている。

自分もどこかに所属すればよかったと思ったが、1から自分の街をつくりたいという思いがありその道を拒んだ。しかしすぐに後悔した。どこかの町に入れば今以上に簡単に金を稼ぐことができたのだ。独力で何かをするというのは想像した以上に困難な作業だと思った。

しかしこれはゲームであり、現実と比べれば簡単なものだ。実際に本当の初めから街をつくり、国をつくるということになったらいったいどうなるのか。

そもそも安全圏は個人単体が定価を払って確保できるというものではない。野生において安全圏を確保するためには、王自らに安全を維持できるほどの武力と、周辺地域との緊張関係をうまく乗り越えられるほどの器量がなければならない他、その領域に属する民が必要であるし、民もまた安全を維持することに協力的であるよう導かなければならない。さもなければ安全は内外から破綻し、たちまち安全圏は消え去るだろう。

野生において、安全というのは自らが生み出さなければならない。その安全を所属する他の人間たちに守らせるためには、自らが法を敷き、その法の正当性や拘束力を自身の権力をもって与えなければならない。おそらく野生の上に誕生した古代の王国はそのようにして成立した(しかしそうしたトップと法が結びついた体制は独裁や絶対王政を招いてしまうため、今現在では法と人間は切り離され互いに権力を監視させるという体制が取られている、というのは周知のことである)。

自分はこのゲームをプレーして、ことさらルールというものの強みを理解した。しかしそれ以上に、ルールというものを自明視しすぎて、あるいは人間の善意や良心というものを期待しすぎて、自衛の感覚というものを忘れていたということに気づいた。他人は自分の行動次第で、友好的にも敵対的にもなるのである。他人に何もしない、関わらないということが、他人に対して自分にできることのすべてであるというわけではない。

例えばもし自分がこの野生でうまく立ち回ろうと考えるならば、積極的にコミュニティとコミュニケーションを取るべきだった。自分で街をたてず、まずはどこかの街に所属し、街の運営を学ぶとともに、街の人と積極的に交流を交わし、信頼できる人間だと知らしめ、独立後もその街と同盟関係を結んでおき、何か困ったことがあれば彼らに頼る、といった人脈形成もまた構築すべきだった。これが唯一の答えというわけではないが、少なくとも何もしないよりは生きやすくなっただろう(強国を運営する人間ほど他国の人間とチャットでよくコミュニケーションを取っているというイメージがある)。

先日自分がコミュニケーションの問題について話していたことと同様、自身自らが自身に有利な展開を生み出していかなければ、知らず知らずのうちに自分は不利に追い込まれてしまうのである。例えば自分から相手に話しかけなければ、相手は自分に関わることがなく、自分に対する信頼を抱くことがない。信頼がないということは自然に不信感を抱かれるということでもある。自分がよくわからない人間として他人に敬遠されているのは、自分自身の内面的な恐怖ばかりに目を向け、外部の状況に目を向けていなかったからだ。

話がまとまらなくなってきたが、言いたいことは自分の中に自衛の感覚を持つということだ。かつて自分は外の世界に流されるだけだった。外の世界の人間の様々な思惑に翻弄され、自分自身を確かに保つということができなかった。だが結局のところ、それは自分自身に不利なフィールドにとどまり続けていたからだという他にない。不利な状況を自分に強いて、奴隷のように自我を持てぬほどひたすら我慢を繰り返していた。

今回自分がゲームで襲われたとき、もし自分に対抗できる力があれば容易に反撃できたはずだった。あるいは自分がどこかに所属していれば、もし襲った人間が他国の人間だと知れればこの一件を理由に国際問題に巻き込むこともできた。しかし自分はあのとき我慢の道を選んだ。やはり自分は立ち回りが下手だと言わざるを得ない。

自分を持つということが重要である。自分自身を気にかけて守ってくれるのは自分自身である。自分のことを本当に分かってくれているのは、やはり自分である。したがって最も友とすべきは自分であり、他人の横暴のために自分を犠牲にする必要はまったくない。