人生

やっていきましょう

841日目

世間と関わらないことで自分の常識感覚が失われることに不安がある。あるいは既に失われているかもしれないが、少なくとも意思疎通の可能性というものに対しては自覚的でありたいと思っている。

当然ながら、絶対的で不変な常識というものはあり得ず、それを常識を認める人々の集まりが多様に存在し、互いに違和感や納得を覚えているにすぎない。そのことにも注意を向けなければならないが、自分がここで言いたいのは、自分という人間が外部の情報を遮断、もしくは都合の良い情報ばかりを取捨選択すること、またそれによって絶対的な信念の虜となり、自らの平衡感覚が失われ修正不可能になること、それら対して警戒しなければならないということである。

自分と異なる考えの存在に目を向けなければ、知らず知らずのうちに自分の信念が先鋭化し、自分の考えが絶対的なものになる。そうなると他人の考えをすべて拒絶するようになり、他人との共同生活が著しく困難になる。この点を自分はひどく恐れている。どれだけ自分が社会から孤立し交流が困難な状況にあったとしても、やはりどこかで彼らとの交流可能性が残されるべきだと自分は考える。なぜなら自分は社会の中に生きているからだ。

とはいえこれらをある種の脅迫と見ることもできる。端的に言えば、自分が社会の仲間外れにされたくないという本能的な恐怖が、自身の信念を歪ませ、妥協し、同胞意識の内側に入ることを望ませるのかもしれない。果たして自分が本心から社会の同胞意識の中に入ることを望んでいたかと言われればそうと断言することはできない。自分は同調圧力に屈して、社会の一員になりたがっているようにも見える。

だがいずれにせよ、自分は社会性というものを完全に拒絶することはできなかった。自分が死なずに生きるという決断をして以来、生きるためには他者との協調が重要になってくるということを自覚しなければならなかった。自分はその能力が特に劣っており、社会適応がとりわけ難しい人間であるが、それでも協調という社会適応の術を学ばなければならなかった。生きるためにはまずそこからだという強迫的な思いがある。

しかしただ同調圧力の言いなりになるべきではない。自分はこのことをここ数年間でよく学んだ。他人と関わるとき、自分は人との付き合い方が分からず何でも他人の都合の良い人間になれるよう振舞った。しかしそうすることがかえって自分のストレスを招き、またその無理が結局は他人に対する憎悪を増長させるということに気が付いた(これだけ人間関係に気を遣い慎重になっている自分に対して、相手はまるで無理をしていないことに対する理不尽さなどがそれだ)。

自分は何か誤解していたが、自分を持つということと社会性が失われるということは必ずしも一致しない。自分が見てきた多くの事例が示す通り、自分を持った人間が社会とうまく関わっているのを何度も見たことがある。

自分は自分という人間がいまこの場にいることを正当化できる自己を持ちながら、その自己を、少なくとも自分が所属している(したがっている)集団の中にうまく関係を築かせる方法を学ばなければならない。それは外交的な人間ほどに完璧である必要はなく、まずは最低限の協調性を身に着けるほどで良いだろう。