人生

やっていきましょう

873日目

かつてシオランがこんなことを言っていた。

人を人生の悲愴から救うのは詩ではなく論理であると言う。自分はこの点に対して強い同意を抱く。すべての希望が失われ、いかなる価値観も自分の前には無為に等しいと思い込んでいる人間には、励ましの言葉や救いの言葉、悲しみや怒り、その詩情を爆発させた感情の揺らめき、あるいは失望に浸りきった自分自身の内面でさえも、まったく他人事のようにしか見えなくなる。

虚無感によって自らのリアリティが失われているという心境こそ当人のリアルである。だとするならば、そのリアリティの不在状態が自明であるところの論理的な思考こそ自らの虚無に対する慰めにはならないだろうか。少なくとも自分はそう考える。何かを押し付けるわけでも、引き離すわけでもない、ただそこに論理があるということが自分の救いになる。なぜなら、論理は解釈から独立した存在だからである。生きる意味を失ったとしても尚、砂上に立つ霊廟のごとく論理は残り続ける。論理そのものに生きる意味は不要である。

虚無思想に冒されたあらゆる人間にとって、論理はその人の教会であり続けると思う。自分がどのような人間でどのような境遇にあったとしても、論理は適切な処理に対して適切な結果を吐き出す。自分が狂人にならないひとつの理由である。

このようなことをゲームを作りながら考えていた。ギミックを作る際に難しいことを考えるのは苦痛だが、こうした論理的な処理と向き合っている間は、僅かばかりでも自分の中に確かなリアリティを感じていられる。現実感が無いことに現実感を感じるという矛盾した状態だが、自分の内面に様々な解釈を挟み込ませずただ思考を回している状態が、その錯綜したリアリティに安心感を与えるのである。