人生

やっていきましょう

876日目

自己責任という言葉が説得力を持つようになって久しい。物事に対するひとつの解釈にすぎないはずのそれは、今や絶対的な真理のように扱われ、むしろ他者に責任を押し付けるための詭弁や常套句としても用いられる。

責任とは何か問題に直面したとき、その問題を対処する義務があるということである。問題はその義務を全うすべき人間の所在がどこにあるかということだが、その対象は見方によっては自分にも他人にもなり得る。

例えば給料を貰って決められた仕事を与えられているならばその責任は基本的に自分自身にある。しかし自分が与えられた仕事の成否が別の人間の仕事の成果によって影響されている場合は必ずしもそうであるとは言えない。自分が対処すべきとも言えるし相手が対処すべきとも言える。

このように責任とは簡単に割り切れるようなものではないが、現状では自分に関わるいかなる問題にも自分に責任があると考えた方が良いとされる。これはどういうことか。

例えばapexで味方が先にダウンを取られたとする。それが原因で3:2の状態となり人数不利で負けたとする。当然味方がダウンを取られたことに原因があると自分は憤るが、ここで味方にダウンを取られないように立ち回る責任があったと詰める意味はあまりない。確かに味方の行動に問題がありそれに対処する責任が味方にあったことは事実だが、それを責めたところで味方に改善を促すことはできない。野良は一期一会である。

そこでただ単に味方を怒りの感情の吐口にするよりは、自分の行動に何か問題がなかったかを考えた方が良いということになる。味方がダウンを取られたとしたら、それをカバーできなかった自分にも責任があるのではないか。あるいはダウンを取られて人数不利になっても立ち回り次第では1キルくらいは取ることができたのではないか。仮に自分に非はなかったとしてもそこから自分の改善点を見出し、次のプレーに生かすことはできる。自己責任論者はこのように考える。

自分はこの意味で責任を積極的に自らに課すべきだと考える。しかしそれが万能で絶対的な真理であるかと言えばまた違うと思う。

まず第一に自己責任それ自体が無理を伴う思想である。自己責任とは強者の理屈だと常々思っている。見えにくい問題だが、自己責任とは自らに負荷をかけ続ける思想である。味方に心底怒りを感じ、どれだけ理不尽な状況に追い込まれても、精神の平穏を保ち、自己研鑽と試行錯誤のために負の感情を押し殺す。それができる人間だけが前進できるからである。

当然無理が生じる。その時感じた怒り、苦しみ、悲しみ、失望、そのすべてがなかったことにされる。なかったことにすることを自ら強いる。しかし実際に自分は負の感情を莫大に抱えているのである。しかもそのストレスは解消されることはない。これまで本来他責や怒りの表明で解消されていたはずのそれは、すべて自分に向けられ、沈黙を強制し、燻り続ける。

第二に、自己責任論は一歩間違えれば気づかれないうちに相手から責任の所在を曖昧にして押し付けられる詭弁として用いられるということである。自己責任論は自分の関わる問題についてはすべて自分に問題があると考えるので、他人からこれはお前の責任だと詰められた時に基本的に拒絶することができない。ゆくゆくはすべての人間の原罪を一人で担ったイエスキリストのように苦難の道を歩くことになる。当然強者はこの苦を担う覚悟が備わっているから自己責任論を称揚して前進できるのだが、そうでない自分などの人間にはあまりに苦難多き道である。

自分は基本的に自己責任論者だが、それは自分が合意した課題に対してのみであり、複数の人間が関わる問題については、もしくは他人に押し付けられた責任に対しては中道的な立場を取る。何か問題が起きた時、自分が関わるならば(仮に責任という概念が自明のものでなかったとしても)自分にも対処の責任はあると考える。しかしそれは自分だけでなく、同じように関わる人間たちにもまた責任があるとみなす。その時自分の責任が及ぶ範囲を明確に理解し、その外側の問題については、自分の責任の及ぶ範囲ではないということを常に自覚する。この自覚こそ自己責任論の皮を被った他責の詭弁に対抗する唯一の手段である。その上で何かを頼まれた場合には自分の許容量に応じて手伝うかどうかを判断する。無理であれば無理だと言う。

自己責任は諸刃の剣である。使い続ければいずれ破綻する。無理が生じて人間が壊れる。有用だが万能ではない。そのことを自覚しなければならない。