人生

やっていきましょう

878日目

テレビではよく誰かが笑いを取ろうとした後に笑い声が挿入されることがよくある。この笑い声の正体は編集が録音したものを勝手に挿入したものであるとされている。したがって本当に誰かがそのお笑いを見て笑っているわけではないのだ。

あるいはワイプに映る芸人が何かを見て笑っていることがある。これは実際に笑っているのだから面白いのだろうという意見もある。しかし彼らが本当にそれを面白がっているのかは分からない。自分の目の前にあるのは、彼らが笑っているという「演出」だけである。

そう考えると不思議な気分になる。自分が見ているそのお笑いは、誰かによって面白いとされているお笑いなのである。本当は面白くないかもしれない、つまらないかもしれない、それでも演出が面白いということにしている。

自分はそのとき、哲学的ゾンビを目の当たりにしているような感覚に陥った。目の前にあるお笑いは笑えるものではないのに、そのテレビに映る自分以外の人間は皆笑っているのである。テレビの中の彼らはそれを本当に面白がっているのだろうか。その映像を見せられている無数の受け手は、同じようにそれを面白がっているのだろうか。あるいは本来それは大変面白いもので、多くの人間が笑って然るべきなのに、自分だけが笑いの感性が異常であるために面白くないと評しているだけなのではないか。そう考えるととても何かを笑える気分ではいられなくなった。

しばらく笑いについて考えた。自分が面白いと思う笑いと、面白くないと思う笑いがあるのはなぜだろうか。なぜテレビはわざわざ笑いの評価を恣意的なものにしてまで面白いということにしようとしているのだろうか。

結論から言えば、笑いとは極めて文脈に依存した存在であるということ、そしてテレビはその文脈を広く視聴者に行き渡らせる必要があるということが主な理由である。

笑いの文脈とはどういうものだろうか。

例えばインターネットのオタクはしばしばクラスの中心人物の笑いについてほとんど面白くないという評価を下すことが多い。これは本人がクラスの内輪で共有されている笑いの文脈から切り離されているということ、もしくはクラスの中で面白いということに「されていた」笑いであるということを彼が暗に見抜いていたためである。自分もまたそういう日陰者の一人だったが、まったくすべてを面白がらないというわけではなく、ネットで話題になった笑いには大いに爆笑するというような子どもだった。それに比べるとクラスの笑いには欺瞞を感じていた。

笑いの文脈から切り離されているということ、笑いの文脈の共有者が、本来的な笑いの粗さをその文脈によって覆い隠してしまっているということが、笑いを面白がることができない大半の理由である。

傍から見ると何が面白いか分からないものでも、その面白さの文脈を信奉している人間達にとっては面白いのだろう。テレビの笑いを面白いと思う人もいれば、クラスの笑いに爆笑する人間もいれば、自分のようにネットのギャグに爆笑する人間もいれば、アニメ特有のコメディを面白がる人間もいる。それぞれの文脈に反応できる笑いがあるかどうか。面白いかどうかはただその違いでしかない。

今度は笑いの発信者の立場に立って考えてみる。なぜテレビに映るお笑いは後から笑い声をつけてまでわざわざ面白いものであるということにしているのか。先ほど自分は、テレビはその文脈を広く視聴者に行き渡らせる必要があると述べた。これはどういうことか。

テレビは誰かのボランティアによって賄われているものではなく、放送会社という一企業が金銭の獲得を目的として運営されているものである。したがってテレビの制作側からすれば面白いものだろうが何だろうが(放送倫理に抵触しない範囲で)とにかく視聴率が取れて収入が得られる番組を作ることが優先される(これは漫画や本の出版社についても言えることだ)。

しかしお笑いというものは極めて評価が不安定なものである。そのまま野放しにしていると、面白いものが生まれるかどうかは完全な運任せになる。このように不確実要素が多すぎる状態というのは企業にとって好ましくない。自分が製作側に立つならば、安定して笑いが取れる仕組みを考えようとする。

おそらくそうした経緯で導入されたものが、例の録音笑いというものなのだろう。多くの人間はそれが本当に面白いと思えるものかどうかを真剣に熟考することなく、その場の雰囲気で笑いを察知し、つられて笑ってしまうものである。だからどこかで笑いが起きていれば、あれは面白いものだと安易にそう思ってしまうのだろう(これは自分でもそうなりがちだ)。

仮にテレビの番組に録音笑いがなかったらどうなるだろうか。ワイプの芸人も映らず、賑やかしもおらず、観客もおらず、ただ用意されたステージの上に芸人が淡々と笑いを取ろうとする映像だけが流れているとしたら。今よりずっとテレビはつまらないものになるだろう。それはテレビの笑いの質が下がったというわけではなく、映像化された笑いというものがより純化され、作り手や発信者の意図以上に受け手の文脈により依存するようになるからだ(突き詰めて言えば、受け手自身も多くの演出を前提としたコンテンツを自明のものとみているため、受け手の笑いの文脈からも切り離されたものになるかもしれない)。

現代は笑いの文脈が多様化した時代である。個々の関心が分散するなかで視聴者をつなぎとめて置きたいテレビ局の事を考えれば、録音笑いというものの存在意義と必要性はある程度理解はできる。

しかしやはりフェアではないと感じる。もしそれが面白いと思うのなら録音された笑いを後からつけるのではなく、芸人や観客の素朴な笑いをそのまま録音したものを映すべきである。あるいは番組の企画や演出で真っ向から勝負すべきであり、そうした純粋な評価が面白さの評価軸になるのであって、その部分を偽って映像をただ面白いことにしたものばかりを流していては、いずれその面白さが通用しなくなる時が来るかもしれない。