人生

やっていきましょう

882日目

自分はいま自分の言葉を失っている。自分のためだけの言葉は既に失われ、開かれた、意思疎通の道具としての言葉だけが残されている。自分の中の違和感を排し続けた弊害だろうか。

ある意味世の中に適応しようとした結果とも言える。違和感とは伝達不能な言葉に対して抱かれたものであり、その背景には他者がいた。他人に理解されない言葉は容易にその価値を毀損させるという反射的な自己否定が、自分の言葉をよりニュートラルなものに駆り立てた。

自分に向けられた自分だけの言葉を作ろうとしてここに文章を書き始めたが、書いていくほど自分らしさがなくなっていくのは皮肉だ。違和感はもうほとんどなくなったが、どこか自分でない誰かが書いた文章のように見える。

ある種の物書きは、意思疎通の衝動を振り切って、伝達し難く他人に理解され難い自己特有の観念をひたすら言葉に表そうする。その言葉によって、他の誰にも救い得なかった自己に僅かな慰めを与えるからである。それは確かに可読という点では違和感が残るだろう。しかしそれでも、言葉の価値を信じる者にとっては、自らの言葉が他人に理解され難く、自己完結的で他人を不快にするという言葉の違和感と全力で向き合い、しかしその自己本位の産物を肯定するだろう。

自分はそうする勇気を失った。かつてそのようにして文章を書き連ね、真摯な自分の感情と向き合おうとした。しかしそれらを後から見直すとそれらが酷く稚拙で醜く、承認欲求の塊で泣き言を喚きたて、自分が可哀想な人間だと喧伝しているように思えた。自分はそのことに激しい失望を感じてしまった。それから一切そうした文章を書かなくなってしまった。

しかし、それで何が悪いと思うことも自分にはできたはずだ。どこか世間に顔向けできないという弱者特有の発想、すなわち自己否定による適応をこの一件からも感じてしまう。

ある人間はまったく品性を感じさせないが、しかしそのことで自己否定にも葛藤にも屈することがなく、ただ堂々と自らの言葉を肯定している。彼らはなぜ生き恥を晒しているという自覚がないのか。それは彼らにとって重要なのは他人の目ではなく自分自身の満足だからである。

自分はこの酷く醜悪な自己満足にある種の強かさを感じる。自分が自らの言葉に向き合えないのは、自分が臆病で他人の目ばかり気にしているからだ。他人の目が気になるのは、自分が他人の評価によってその正当性が揺らぐほど脆い存在だからだ。自分に足りないのは、自らに対するふてぶてしさである。

ネットを見ればふてぶてしい人間など山ほどいる。彼らは自分が誰よりも正しいと思っており、自分の感情や言葉は当然理解されるものだと思い込んでいる。自分には力があると思い込んでいたり、反対に自分は誰よりも弱く苦しんでいて可哀想な人間だと思い込んでいる者もいる。実際にはそうではないと客観的に見れば分かることでも、主観に生きている人間にとってはそうは映らない。自分はこうはなりたくないと思う。

しかしこの主観没入型の人生を送っている人間は、自分の中の正当性を決して他人に譲り渡さないのである。信念が自らに力を与えるとはまさにこのことである。見る側にとって、彼の振る舞いが客観的に見て稚拙で愚かであると分かっていても、ドンキホーテの如く、その愚かさに全力に向き合おうとする姿勢にはある種の英雄性を感じる。自分に足りないのはこの愚行に対する勇気ではないか。