人生

やっていきましょう

886日目

創作にはこのようにしなければならないという制約はない。自分の表現したいものを自由に描いていれば何であれそれが作品になる。

このような前提を自分はよく忘れてしまう。描く対象について無知であったり、表現に必要な技術を欠いていたりなど、何らかの不足によって自らの表現が作品と呼ぶに値しないと結論づけてしまう。

確かにそうした自己否定は作品の巧拙に影響を与えるだろうが、必ずしも創作に不可欠なものではない。自分が生み出したものはいかなるものであれ自分の作品である。劣等感や完璧主義がそれを許さなくとも、明らかにそれは一人の人間が何かを表現しようとして生み出された何かである。

創作を長く続けていると、この作品は絶対に面白くしなければならないと思い込むようになってしまう。そのために視野が狭くなり、焦りが生じて小手先のテクニックに頼り、余計につまらないものが生まれることがしばしば起こる。

自分はもう少しこの面白さに対する束縛をなくした方が良いと考える。創作はもっと自由なものであり、多少の冒険をしてでも自分の表現したいものを表現すれば良いと思う。

作品は面白さというものを表現しようとすると途端につまらなくなる。なぜならその時自分は確実に面白い表現が出来ずに悩んでおり、面白さが分かっていない状態でありながら、面白い表現なるものを目指しているからである。

そうではなく、面白い「から」表現するという意識を持つことが重要である。その時自分はそれを面白いと思っていて、何を表現すればそうなるかが分かっているからである。

そのためには自由に発想を広げてアイデアを勝手に連想させておくことが一番だ。固定観念に縛られず、とにかく特異な連想が生まれてくるようなアイデアの土壌を十分に耕しておく。

邪な承認欲求や義務感に惑わされて自由な発想を殺すくらいなら、それらは捨ててしまった方がいい。恥もあまり持たない方がいいだろう。自分の発想に集中できるスペースを持つことが重要であり、それらを阻害する要因は極力排さなければならない。

とはいえ自由すぎる発想もまた問題がある。例えばストーリーの方向性を曖昧なものにしたり、面白さの文脈を分かりにくくする。したがってストーリーの骨格というものを意識した上で、それらを過度に逸脱しない程度にアイデアを膨らませると良い。ただしその判断自体は後から修正すれば良いのであり、アイデアを膨らませている内はそのことで煩わされる必要はない。