人生

やっていきましょう

893日目

よくよく考えてみれば、自分は死を望むという境地に滅多に至ったことがない。どれだけ精神が壊れ深刻な不安に襲われていたとしても、自分の中にあったのは消えてなくなりたいという希死念慮ではなく「どうにかしなければ」という強迫観念だった。

この切迫が死への希求に勝るというのが自分という人間の本質なのだろう。決して生きることを望むにも自己を肯定するにも至らなかった自分が、この強迫に関してはまったく拒絶できずその流れに導かれるまま突き進んでおり、ついぞ強迫によって生かされている自己を否定することがなかった。

本当に死を覚悟したのはもはや打つ手がなく何をやっても挽回の機会が得られないと悟った時だった。当時体験した「溶けるような」感覚は今ではもう味わうことはないが、そこまで追い詰められない限り、自分は最後までどうにかしようと考えるだろう。そのような切迫感に駆られながらこれまで生きてきた。

だから自分は死を望むという人間をかなり近いところまでは理解できても、その先の深い共感までは抱けないだろうと思う。自分はかつて死を望みすらしたが、何かひとつでもどうにかなるならばどうにかしようとするからである。

自分は一度、極度のストレスが原因であらゆることに意味や価値が見出せなくなるという状態に陥った。自分の意思や欲求、思考、判断が正常に機能しなくなり、自分は死を望んでいるという自己すら失っていた(そう考えれば、死を望むというのは、自ら死を望んでいる自己自身を普段から受容していてこそ思えるものだと実感する)。

虚無は希死念慮に勝るというのを自分は肌で感じ取った。方向そのものを失ったとき、死と生は単に同じ地平にある異なった道筋にすぎない。何をどうすれば死にたいにも生きたいにも思えるようになるのか分からない状態の中で、それでも自分はこう思っていると受容できたのは、唯一、生きることを「切迫されている」という感覚だけだった。

令和に入ってからの自分の人生は、どうにかしなければという思いに駆られて生きてきたようなものだ。才能の有無にかかわらずあらゆることに手を出して、そのすべてを失敗した。実際どうにもなっていないが、どうにかしなければという思いは未だ残っている。

だから自分はこれまで通り何かをどうにかしようとするだろう。結局のところそれで自分が賢く生きられるわけでもなく、最後の悪あがき程度のものでしかないが、それでも自分はどうにかしようとするだろう。時々そうなる自分が愚かに見える。