人生

やっていきましょう

895日目

最近の自分を振り返ると本当に無意味な生活を送っていると感じる。未来に向けた視点を完全に失い、その日暮らしの中で感じた【自分は何かやった】という雑な達成感だけが生きる糧となっている。日記というのも、そういう感情をただまとめただけで、結局何かに繋がっているわけではない。

自分は致命的なストレスから回復するために2年幾月という時を捨てた。そのことにまだ後悔はあるが、癒えない無力感の方が大きく、ただ流されるまま生きていた方がいいと思ってしまっている。そうあり続けることのリスクを正確に把握できるほどに自分の頭は賢くない。自分という人間を生かそうとした20年余の試みは失敗に終わり、その喪失感から、今はもう何もしたくないという思いでいる。

初心を度々思い出すときがある。記録をつけはじめた当時、自分の欠点をひとつひとつ改善していこうと努力していた。確かにそのことで自分の中に確かな自信が芽生えたことは事実である。だがそれは結局のところ、試行錯誤によって問題が解決されるということが明らかになっただけであり、本当のところ自分はどう生きたいのかという答えを与えてくれるものではなかった。

当時を思い出すと、自分は生きる資格を得るためだけに必死でもがいていたと思うのだ。自分が生きるに値しないのは無能だからであり、自分が生きていても周りに迷惑をかけるだけなのだから、いっそ死んだほうが良いと考えていたようだ。こうした希死念慮を否定して、それでも生きるのだと能力主義を自尊の根源にしようと、幼稚園レベルの習慣から見直して改善しようとしていたのを思い出す。

今となっては本当に無意味なことだと思った。それらは自分が必要に感じてそうしてきたというよりは、無能であることの焦りに急き立てられてやらされていたようなものだ。しかし自分に何かができたからといって、また仮にそれが自身の有能さの証明になったからといって、何の意味があるだろう。数々の無駄な挑戦を経て学んだことだが、自分が無能であろうが有能であろうが人はまったく感心がない。お前が無能であってはならないという強い期待も拘束もない。自分がただ、無能即ち死という妄想に駆られひとり勝手に奔走していただけである。

俗な話だが、承認欲求というのはかつて自分の人生に大きく関わっていた問題だ。当時の自分はそれを否定したがっていたが、結局のところ、自分は人の目などどうでもいい、自分の満足のために生きられればそれで良いという人間ではなかった。他人の目にびくびく警戒して、臆病で、そのために自己否定を繰り返して、それでもいつか報われるという根拠のない期待を抱きながら泥水を啜って生きてきたような人生だった。自分は泰然自若とした人間であるように思われていたようだが、その実内面は他の人間と大して変わらない、一人のよくある無能だった。

意外にもこうした自己評価に対して不条理感を抱くことがあまりない。冷静な目で見ても確かに自分は物事を知らなすぎる。経験もないのに賢しらぶって失敗するような人間だ。そんな自分が現状のような逆境に立たされていても当然としか言いようがない。

そんな自分が再び立ち上がろうとしない/できないのはなぜか。単に傷がまだ残っている、挑戦に対して臆病になっているということもできるが、実のところ自分が未だに生きようとしていないのに生きてしまっているというのが率直な理由だ。

自分がいまここにいること自体が際立って異質であるという自覚が未だに拭えない。なぜあなたはいつまでもここにいるのかと問われたとしたら、自分は何も言い返せない。自分が望んでここにいるわけではなく、かといっていたくないわけでもない。なぜかここにいるとしか言いようがない。

これはどれだけ深刻に考えても同じような答えにたどり着く。おそらく誰も彼もいまそこにいることは異質なのだろう。しかし奇妙なのは、そのことを考えているのが自分のような気のふれた人間くらいで、大抵の人間はいまそこにいることが当然であるかのように生きられているという事実である。その感覚が得られるまでは、自分は永遠と生きるということに対して異邦人のままなのだろう。