人生

やっていきましょう

900日目

自分は他人の都合に振り回され過ぎていると感じる。人からの頼みは断れず自分の頼みは押し付けられない。自分を殺してすべてにおいて他人に合わせようとしている。

これらは自分が誤解されることを恐れているからである。自分は集団の中に溶け込んで自然と信頼を得られる人間ではない。基本的にただそこにいるだけで不審に思われる。しかし自分は集団や他人に対して危害を加えるつもりはないということをどうにか示さなければならない。そこでどうにか考えた苦肉の策が自我を捨て利他と貢献に徹するというものだった。

しかし社会性に乏しい人間の利他に徹するという生き方は、社会性に富んだ利己的な人間の生き方よりも苦難であることは常である。学校の出席カードや提出物を他人に任せ、自分だけは楽をして良い成績を取る人間がいることからも分かる。他人の頼みを断れないと自分に不利な要求ばかりが集まって来る。

こうした経験が幼少の頃から続いており、自分は自分の身を削ってまで利他行為をしているのだから相手も同様に自分に対して利他的でなければおかしいと感じてしまっている。しかしそれは間違っている。自分のように利他の強迫ゆえにどこか歪んでいる人間でなければ、相手はこちらの都合を汲んでわざわざ合わせてやろうとは思わないのである。

これまで自分と関わりを持ったほぼすべての人間が、彼らにとって有利な条件を自分に押し付ける人間だった。しかしそれは必ずしも悪意などではなく、むしろ行われて当然のものと考えている人が多かった。と考えれば歪んで捉えているのは自分の方ではないかと思う。

自分は何か人生に対する理解の根本的な欠落があったように感じた。基本的にこの世は利己的な人間の独壇場である。自分の要求を押し付けるということが、生きるということそのものである。しかしそれは万人に与えられたひとつの権利でもある。自分もまた自我を理由に誰かに要求を突きつけることができる。

だがそのためには、自分の要求ゆえに不快に感じたり嫌悪を覚える人間がいるということを自覚しなければならない。またそれゆえに自分とは手を切る人間が出ることを覚悟しなければならない。我欲を押し付けるとはそういうことである。

また要求をする自由を自らに認めるということは、相手が自分の要求を拒む自由をも認めるということでもある。利己を突き詰めれば相手の自由を認めず自分の利己を押し付けるということが最も利に適っているが、論理のフェアネスを信奉しているのであれば、少なくとも公正さという点では不利になることを受け入れなければならない。

また他人にとって誤解や無理解は常であり、どれだけ配慮しても他人が勝手に自分を悪く捉えることなどざらであるということを自覚しなければならない。当然それは自分にも言えることである(過剰な利他に対する埋め合わせとしての期待や不満など最たるものである)。それらのすれ違いを自明のものとして受け入れることが必須である。

そして何より重要なのが、自分が利己的であることを自覚し過ぎないことである。利己を自明のものとして受け入れ、多くの人間同様、当然のように自分の要求を相手に突きつけることである。そのときは怯まず思い切ってやった方がいい。

初めのうちは失敗するかもしれないが、何事もやっていくうちにはここまでは思い切って良く、これ以上はやめた方がいいという塩梅が分かってくる。完璧である必要はないが、少なくとも基本は体得すべきである。