人生

やっていきましょう

909日目

コンビニに行くと様々なスナック菓子が棚に陳列されている。それぞれに売り文句があり、どれも固有の旨さをアピールしている。その中でひとつを選んで手に取りレジで会計を済ます。そのお菓子は自分に選ばれたものとして自分の記憶に残る。

何かを買うということは、自分が選抜する立場にある数少ない機会である。何を買うか選ぶことにより数多ある商品の中からひとつの価値が見い出される。価値の本質はまさに誰かによって選ばれるというところにあるということを実感する。

自分は選ぶ立場よりも選ばれる立場に立たされることが多かった。そして大抵自分は選ばれることはなかった。自分という商品を高く見積る人間がいないので、社会的に見れば価値がないということになる。

なぜ自分がここまで評価されないのか悩んだ時期もあった。しかし自分が選ぶ段になってようやく理解した。コンビニで買い手のつかない商品、まさしくそれが自分だった。

陳列されているお菓子には大抵仰々しいほどの売り文句が張り付いている。チップス類なら肉汁ジューシーやらスパイシー、ブラックペッパー、チーズたっぷり、チョコレート類ならとろけるまろやか、クセになる、ふんわり、口どけなど、宣伝文句は枚挙にいとまがない。

大抵そうした商品は売れるだろうと想像する。なぜなら自分がそうした商品を買うからだ。よく考えもせず、それらの言葉のイメージに購買意欲を掻き立てられ、気がついたら買っている。

一方でコンビニには自分が買いたいと思わないスナックもある。イカやホタテなど元々自分が苦手だからという商品もあるが、他にもよく分からないスナックを選ぶことが少ないと感じる。未だにハリボーのシュネッケングミを買ったことがないのは、それが何なのかよく分からないからである。

他人から見た自分は、まさしくハリボーのシュネッケンであるように思う。自分という人間のセールスポイントが買い手に伝わらず、購買意欲を掻き立てない。だから優先順位を下げられる。

なぜこうなってしまったのか。それにはいくつか理由がある。自分は自分を高く宣伝することに嫌悪があった。なぜなら自分にはその名を冠するほどの実力が備わっていないと十分理解しているからである。自分が非力でありながらさも力があるように見せつけるのは虚仮であり詐欺である。そう考え、これまでの人生の中で自らを強くアピールしてこなかった。

あるいはそもそも、自ら喧伝しようとしているセールスポイントなるものが、いったい何であるか理解できなかった。自分はスパイシーやらジューシーなどを売りにしたチップスを見れば買ってしまうが、そもそもスパイシー、ジューシーとは何かと考えはじめると途端に何もかもが理解できなくなる。それは本当にジューシーなのか、スパイシーなのか。売り手が勝手にそう言っているだけで、その判断の妥当性はどこにもない。

それは自分にも言える。自分は人より文章を書いて来たという点で一日の長がある。しかし文章を書いてきたという経験が、果たして文章の質の妥当性を保証するに足るものであるとは限らないのである。またそもそも文章の質とは何かということも自分は十分理解できていない。自分が理解できていないうちから他人に自分を売ることなどできない。こう考えてきた。

しかしその結果がシュネッケンである。自分は100人の人間を集めた中で最も実態が掴めない人間だと評価される自信がある。なぜなら自分から「自らを分かった気にさせている何か」を切り捨て、哲学的な再構築を試みるも失敗し、不完全でよく分からない何かを提示しているからである。これが芸術家崩れならば曖昧さを深淵さにすり替えてこれが自分だと言えただろう。しかし自分はそうあるには臆病すぎた。

芸術は記号を消費しているにすぎないとよく言われる。魂を打たれて名画に感動するのではなく、あるいはそうであったとしても、それがルーブルに展覧されているからだとか、ゴッホが描いた名画だからという理由で見ている者が大半である。

芸術だけではない。コンビニのスナック菓子も、自分が欲しがっているゲームも、ブランド品のバッグも、大学の名前も、就職先も、資格も、それをよく分かっていないまま、単にその名にかかる威光に縋っているだけである。そんな盲目な自分が、せめてもの罪滅ぼしと思って曖昧なものを曖昧なまま理解しようと努めている。しかしそうした態度から生まれてくるものはいつもシュネッケンである。

自分は自分という人間はこのような人間だと言える記号を持つべきなのだろう。その妥当性が理解できず、その空虚さが分かっていても、敢えて自分はこうだと言う必要がある。なぜならそのようにして人は生きているからである。

自分を評価する人間は、自分がコンビニでスナック菓子を買った時のように、そこまで深く考えていない。あらゆる自己評価がその名に値しないからといっていかなる価値も付与しなければ、仮にその背景にどれほどの苦悩や葛藤があったにせよ、目の前にあるのは買い手のつかない得体の知れない何かである。

せめて自分はこういう人間であるという方向性くらいは最低限示すべきだろうと思う。自分の頭の中で世界が完結している自分には分かりにくいかもしれないが、人間の相互信頼の基本はこのような自己の開示にあってこそはじめて成立するものである。