人生

やっていきましょう

914日目

コミュニケーションの不得手について可能な限りその自覚しているところをまとめてみることにした。

自分が会話を苦手とするところは自分の情緒交流が不得手であるということが大きい。元々相手の感情に自分を溶け込ませることがまったくできない人間である。そもそも自分が他人に関心がないのかもしれないし、会話にまつわる失敗の記憶が自分を臆病にさせているのかもしれない。しかしこれ自体は大した問題ではない。

問題は自分の感情、自分の考えを歪めてまで相手に同調しようとしてしまう点にある。自分の本意が他人と分かり合えないことが分かっていても、あるいはそうなることを恐れて、自分は自分の考えていないこと、感じてすらいない感情を抱いているように他人に見せかけようとしている。そして同時に、それが自分の本心であるかのように自己に暗示をかけている。

自身のコミュニケーションの問題はこうした本心でない「本心」に言葉を語らせようとする時に生じる。自分が考えて発した言葉ではなく、ひたすら嘘の上塗りを続けていく。関心がないのに関心のあるフリをする、意見や考えがあるのにそれを言わない、そうしたことを繰り返していくうちに自分というものが段々分からなくなって行く。あるいは、自分の考えや感情がそこまで隠蔽、改竄しなければならないほどに信頼におけないものなのかと思い始め、自分自身の本心が信じられなくなってくる。

自分は自分の思考や情緒、判断の不確実性を自覚しながら、常に何かの決断を迫られている状態にある。何が妥当か分かっていないまま、何か手を打たなければと思って必死に言い訳を考える。そうして思考がストレスと不安でパンクした時に、自分が何を言っているか、何を言おうとしているか、あるいはもっと酷い時だとそもそも何の話題をしているかを完全に忘却し、フリーズしたような状態になる(その後自分が事態を投げ出していることに気づき、何か言わなければと焦りが急激に迫ってくる)。

この問題について2点把握していることがある。まず本心を偽らなければならない理由についてだが、そのようにしなければ相手からの信頼を得られないと考えているからである。かつて自分は自分の考えに従って生きていたが、自分の我を押し通せば必ずどこかで衝突が起きていた。相手の感情が分からない人間なので何に相手が傷つき、何に相手が怒るのかが分からない人間だった。

そうした自分が身につけた処世術が、とにかく自分は沈黙し、相手に合わせて自分の思考や感情を偽るというものだった。これで衝突することは少なくなったが、そのために会話ができなくなり、自分が何者か分からなくなった。すなわちこの処世術に問題があった。

もうひとつはコミュニケーションにおいて自分の精神が不安定になり、言葉が出てこなくなる直接的な理由である。それはすべての人間に対して同じように信頼を得ようとしているからである。自分に限らず、人間は誰しも自分に合う人間とそうでない人間がいる。自分に合う人間は考え方が似ており大した無理を強いなくとも自然と意思疎通を行うことができる。しかしそうでない人間は、何をやっても息が合うことがない。

本来であれば彼らには極力近づかず話も最小限にとどめるべきなのだが、話の合わない人間にも自分は主導権を受け渡し、本心では興味の無い話であっても我慢して聞いてしまう。これは臆せず言えば自分の幼少期に家族に対して行わざるを得なかった態度であり、またそれゆえに学校の同級生に対しても行っていたものである。彼らは一方的に自分の関心を吐き散らかすが、こちらの関心を語ろうとすれば途端に耳を塞ぐ人間だった。この四半世紀、そういう人間ばかりが自分のもとに集まってきた。無理に自分の関心を押し通せば当然嫌われるのである。

2018年以降の3年間にかけてようやく他人に服従しなければならないという思い込みが解けてきたが、その中で見出した解決策は以下の通りである。

ひとつは自分を犠牲にしてまでも他人の信頼を得ようとしないことである。最も重視すべきは自分の関心である。なぜなら他人はこちらの関心に同調してくれるとは限らないからである。無理に他人に合わせたところで、他人の関心の掃き溜めに利用されるだけである。

自分の過ちのひとつに他人に期待しすぎているという部分がある。無理をして他人に話題を合わせているのだから当然相手もこちらに無理をして話を合わせるべきだろうと考えてしまう。そうでなければ理不尽だと怒りを覚えることもある。しかし理不尽なのはそこまでして他人に無理を働く自分である。他人はそもそも他人であり自分ではない。彼らが自分の期待するように動くはずがないというのはapexでの経験から見ても明らかである。したがってそもそも他人には期待しない、話が合えば良い程度に考えておく方が良いだろう。

また、会話の主導権をすべて相手に受け渡すべきではない。コミュニケーションは双方向のものであり、一人のみ担わせるものではない(そう考えるとかつて自分の周りに集まってきた人間達にも辻褄が合う。自分の全面的な受け身の姿勢により互いに会話を交わす人間は近づかず、自分の考えを一方的に語りたい自己中心的な人間ばかりが自然と選抜されていたのだ)。自分は相手の思い通りの言葉を吐く機械としてではなく、ひとりの異質な人間として相手と対面し、言葉を交わす必要がある。そのためには自分から対話に関わり、時には話題の主導権を自ら握る必要がある。そうしてようやく相手との対等な会話が成立すると理解すべきだ。

それから合わない人間とは無理をして関わらないことである。合わない人間はどれだけ言葉を選んでも合わないので距離を取る必要がある。かつて自分はそうした人間に憐れみを感じ、せめて話くらいはと思っていたが、それは自らの犠牲によって行われるべきものではないだろう。

いずれにせよ、まずは自分の関心を貫くことが重要だ。その関心に従って誰を自分の近くに置き、誰を自分の遠くに置くかを決める。礼節を忘れてはならないが、他人の気を引こうとして自己主張に怯えるべきではない。何か薄氷を踏んでしまい相手との関係が決裂したら反省し次を探せば良いのである。

コミュニケーションの主体は自己にあると知るべきだ。対立を恐れてはならない。自分が他人から誹りを受けようとも自分を貫くという覚悟を持たなければならない。