人生

やっていきましょう

916日目

自分は何者かというアイデンティティにまつわる問いは「自己を社会のなかに位置づける問いかけ」でもあるという。他者という異質な存在に対し自身はかくあるべしと答えられるもの、それがアイデンティティである。

ある人間にとってこのことは当たり前のようにできている。あるいはその形成が希薄であってもこの問題が問題であると認識していない者もいる。自分はこの形成に失敗し、またそれが深刻な問題であるということを認めている。いわゆるアイデンティティの形成に失敗した人間である。自分が何者なのか、未だに納得のいく答えが得られていない。

ある時期まで自分は疑似的なアイデンティティの獲得に成功していた。疑似的というのは、社会に対する一種の妄信に近い信念を抱いていたことによって「自分が何者か分かっていないままどうにか何者かになろうとしている」という自己を獲得していたことによる。

例えば自分は高校時代勉強に力を入れていた。だがそれは自分の本心からでもなく、知的好奇心からでもなく、ただそうしなければ自分に価値がなくなるという思いがあったからだ。自分は元々頭が悪く勉強などしたがる人間ではなかったが、人とまったく話せず、学校に居場所がなく、不登校手前という段階で、しかしそのまま去ることを潔しとせず、どうにかその場に存在できる理由を必死で考え抜いた結果が勉強だった。

しかし所詮は疑似的なアイデンティティである。それは自分が望んでいたものではなかったからだ。自分に居場所がないという現実があり、その現実に自分を適応させようとして勉強という慰みを得た。しかしそれは自分の本心ではなかった。当時の自分の本心は「もう何もしたくない」だった。そしてその本心は先の10年に至るまでずっと続いている。

とにかく高校以来、自己の本心を押し殺し自分の居場所を死ぬ気で得ようとしていた人生だった。そしてつい数年前にその試みが失敗しこれまでの努力をすべて放棄した。当時から精神の挫折と泣き言を言っていたが、それは自分の居場所、自分のアイデンティティを得ようとして得られなかった努力の挫折である。

挫折したことにより、自分の疑似的なアイデンティティも一緒に捨て去られた。どうにか自己同一性を獲得しようとして無理にでも維持してきた勉強や努力、心にもない小説や漫画、絵の創作、他者との関係、つまらないプライド、その一切が消えた。それはある意味で良かったことでもあった。偽りのアイデンティティが失われ、なりたくもない自分になろうとする必要がなくなったからだ。

一方で疑似的なアイデンティティが失われ本当の自己が明らかになってくる。だがそこには隠されていた自己の本質的な関心などというものはなかった。ただ何もない荒地がそこにはあった。

それは自分がこれまでの人生の中で徹底的に自己を否定し続け、自分の関心の種を摘み取り、自分を社会の中に位置づけようと偽りの自己を植え付けてきた結果だった。そこにはもはや何も育つものはなく、しかしそれこそまさに自分であると言えるものだった。

自分にはもはや生きている理由も死ぬ理由もない。虚無に勝る信念を得ることができないのである。ある人はそれこそ自由なのだから、自分の好きな価値観を植えていけば良いと言う。しかしそうした努力は、これまで自分がそうしてきた偽りの自己を演出することなのである。なぜならそこには理性的判断だけがあり、本心がないからである。

挫折から3年経った今、どうにか雑草程度は生えているという状況にある。しかしこれらの関心の芽は社会とどうしても結びつかない。すべてが自己満足でしかない。社会の中における自身の評価は未だに代替可能な部品、もしくは部品にすらなれない欠陥品でしかない。努力を怠っている故であるのは分かっているが、挫折以来どうしても社会、他者全般というものに対してまったく信頼、期待を持てないのである。